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今できるのは「論破」とは真逆の営みを続けること。マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)インタビュー

マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)

目に見えなくて数値化もできないものの存在

マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)

対話を重んじていると、他人と一緒に何かをやるときにどうしてもスピードは遅くなると思うんです。マヒトさんは映画も撮られましたが、仮に監督のビジョンについてこない、こられない人がいた場合、監督の立場をもってすれば、強引に言うことを聞かせることもできますよね。その権力は行使しない?

監督には権力はあるんですよ。絶対的にあります。それを行使しないかっていったら、する場面はたくさんあると思います。自分が書いたセリフを役者に言わせることができてしまうわけですから。映画ってもの自体がすごく権力的な作り方をするメディアだなと思います。それは音楽でも同じで、歌詞は自分が書いてるけど、他のメンバーが違う思想を持っている可能性は当然ある。それが冒頭で言った、人が集まって何かをやるってことの危険性であるとも思うんです。権力は行使する、だからこそ緊張感を持たなきゃいけない、とは思ってますね。

完全に権力がゼロの世界が真っ当で、何もトラブルが起きないというふうにも俺は思ってはいないんですよ。前に友人たちがLGBTQのコミュニティスペースを作ったんですけど、リーダーを置かずfacilitatorという立場をそれぞれがとるという運営形態を目指したら、トラブルが起きたときに責任が分散してしまい、コミュニティが壊れてしまいました。そのときに、リーダーがいるってこと自体はあらゆるシチュエーションで必ずしも悪ってわけじゃないんだな、って思いました。運営に責任を負っていろんなことを考える役割は時として必要なんだなって。だから力と呼ばれるものと緊張感を持ち、バランスをとりながら進めていくしかないですね。

自分の場合は気持ちやビジョンが強い分、言葉も強くなりがちなので、チームに必ず自分にノーを言える人、相談できる人を入れるようにはしています。平気で間違えるので。それはけっこう自覚的にやってるかもしれないです。

すばらしい。会社みたいなパーマネントな組織じゃないからこそ、うまくやれるところもあるのかも。

マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)

そのことに関しては正直、あんまりうまく答えられないんですよね。なんでかっていうと会社に入って働いたことが一度もないので(笑)。囲われたことも、長いものに巻かれたことも……一回ぐらい巻かれてみたいですけどね(笑)。どんな気分なのかなって。なんとなく「大変そうだな」っていうのは見てて思いますけど。一個決定を出すまでにどんだけ時間かかるんだ、ってまわりの人を見てても思うし。「No War 0305」でも、大友さんなんか電話して2秒で出演決定ですから(笑)。あのイベントを1週間で組み上げることは、事務所やレーベルのOKをとるプロセスを飛ばせる、組織に属していない人の力がないとできなかったと思うし。一方で、例えば折坂(悠太)はアミューズという大きい会社に所属してますけど、きちんとスタッフを説得して出てくれたんですよね。より大変なプロセスを踏んでると思うし、それを成立させることもかっこいいと思います。

リスクも当然あるなかで力を貸してくれた人たちには、もちろん自分のことよりもトピックへの関心が一番だとは思うんですけど、演奏してくれた人にも、スピーチをしてくれた人にも、設営や交通整理に関わってくれた人にも、リスペクトしかないです。それはさっきも言ったように組織に属していない人、フリーランスの力だと思うし、組織に属していても自分で意思決定できる人の強さだったとも思うし、そういうことが力を発揮する機会はこれからもっと増えそうな気がしますよね。何が来るか本当にわかんない時代ですから。

やっぱりマヒトさんとの信頼関係も大きかったはずですよ。

お金とか「生産性」みたいなことを意思決定の真ん中に置く新自由主義的な考え方が大きいものを動かす時代に、信頼関係みたいな目に見えなくて数値化もできないものって、特にインターネットの世界ではないものとされてますけど、確かに存在してると思うし、それは大事にしていきたいですね。

「わかりにくいコミュニケーション」が持つ可能性

マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)

「力を貸してくれるか?」と問いかけて「やるよ」と答えてくれるみたいなコミュニケーションは、時間はかかるけれど、そのほうがもしかしたら長持ちするのかもしれませんし。

長持ちに関しては正直、難しいなって思いますね。「No War 0305」では、経費はカンパで賄うってコンセプトに明文化してたんですけど、いくつもあるコンセプトのひとつだったから、それを読まないで戦争被害者への支援としてカンパボックスにお金を入れてくれた人がいっぱいいたんです。その気持ちを思うと心苦しくて、カンパは支援に回して運営費は事後に別途募ったんですけど、坂口恭平さんが「持ち出しじゃ続かないから寄付のうちから必要経費はちゃんと明示して出すべきだと思う。そうしないとタダ働き、赤字の人が出てくる。(中略)なんで善意の行動は全部持ち出しなのか」って書いていたんです(※2)。批判じゃなくて優しさだと俺は思ってるんですけど。

(※2 坂口恭平 Twitter)

永続的に力を発揮し続けるのって大変なことで、社会運動の評価というものをどう育てていくか、課題として真剣に考えていかないと、関わる人の体力がもたないですよね。それぞれの暮らしがあるわけだから。どうすれば両立させることができて、どうすれば「やってよかった」「また頑張ろう」と自然に思えるようになるんだろうってことは、以前から考えてましたし、今回も思いました。お金じゃないがゆえの強さもあるけど、脆さもある。ちょうどいいバランスは絶対に見つけなきゃいけないと思ってます。

本当にそう思います。社会運動ではないけれど、カンパで運営費を賄う全感覚祭を続けているのはすごいことですね。

あれはお金を稼いで自分たちの生活の糧にするという目的じゃないので、そのコンセプトが支えてくれてる気がします。じゃあ何が目的かっていったら、さっきの文脈とは違った意味ですけど、人が集まることの可能性を今も自分は信じていて、そういう空間を作ること自体なんですよね。出会いがあったり、対話があったり、恋があったり、バンドを組むやつもいるかもしれないし、いい気が流れるいい空間があって人が集まれば、下書きなんかしなくても勝手に無数のドラマは始まるんです。

それぞれ孤独な人と人が出会ったりつながったりする空間を作るのは、とても意義深い事業だと思います。「いろんな考えの人が一つの空間にいて、同じ月を見ていることの持つ力に可能性を感じている」(※3)とも話していますね。

(※3 朝日新聞デジタル&M『「傲慢さに絶望しながら、それでも人間を信じている」 マヒトゥ・ザ・ピーポー、怒りと光の相克』)

コロナが来てから、情報の交換としてのコミュニケーションがネガティブな意味で加速した気がしてるんですよ。例えば今インタビューで対面で交わしている言葉にしても、記事では文字に置き換わるけど、体温があるじゃないですか。どういう人がどういう気持ちでその言葉を発したか、そこに宿る体温が、文字にするとフラットになっちゃうわけですよね。例えばジョン・レノンが「Love and peace」って言うのと、そこらへんを歩いてる人が言うのでは全然違うけど、文字に落としこんだら同じ質量にしかならない。大事なものが抜け落ちてる気がするんですよ。

マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)

阿寒でのウタサ祭というアイヌのウポポで和人と交わる歌のプロジェクトに関わらせてもらってるんですけど、大事な歌を受け継ぐときって、口伝なんですね。それはアイヌだけじゃなくて、ネイティブアメリカンとかもそうだし。大事なことを誰かに伝えるときは、言葉とメロディだけじゃなくて、体温が本来は重要なはずなんですよ。今はそれが抜け落ちて概念みたいなものだけが加速していってる気がして。

言葉からニュアンスが削げ落ちて、意味だけに還元されてしまうと。

言葉だけじゃなくて、コロナ禍でたくさん潰れちゃいましたけど、ライブハウスって密な空間で同じ音を聴いて、同じ光景を見て、同じ匂いを嗅いで、呼吸をして、飛沫を飛ばし、汗もかいて、みんなで大量の水分をシェアしてるんですよね。それはすごい濃厚なコミュニケーションだと思うんです。その情報量はどんな言葉でも語り尽くせない。そういうある種わかりにくい性質があるからこそ軽視されたんだろうし。リモートの時代はその距離をすごく遠ざけてしまったと俺は思ってるんですけど、同時にそういうコミュニケーションが持つ価値はこれから武器になるというか、もっと大切にされていくはずだとも思ってます。

僕も最近ようやくリモートにも慣れてきましたけど、最初のころはかなり戸惑ったんです。そして、人間は話をしながらいかに非言語的なコミュニケーションをたくさんとっているか、あらためて痛感しました。表情とか身ぶり手ぶりとか声色とか、そういうことで大量の情報を伝え合っているんだなと。

そうっすよね。「今言ったこと、うまく伝わってないかもな」とか「ちょっと機嫌悪くなったな」とか、その判断に基づいて言葉を足したり方向を変えたりするじゃないですか。それってリモートだとわからない部分ですよね。

マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)

最後に、孤独と連帯の関係についてはどのようにお考えですか?

本当に難しいですけど、同居させることはできると思ってます。ひとりぼっちでバラバラのまま同じ場所に集まることはできるし、そのなかで同じイメージを持つことというのは不可能ではないと思っていて。

むかし永福町の神社に初詣に行ったとき、ヤンキーっぽい人たちがお賽銭箱にお金を入れて祈ってたんですよ、手を合わせて。その姿を見たとき、「この人と街で会ってもしゃべることはなさそうだけど、初詣に来て今年はいい年にしたいなって手を合わせてる、その一点ではまったく俺と変わらないな」と思ったんです。「いい年」の中身は全然違うかもしれないけど(笑)。そのとき神社にいた人全員がそうだったとも思うんですね。バラバラで噛み合わないところもあるけど、同じところもある。そういうことをもっと大事にできるんじゃないかなって思います。

コムアイさんが水曜日のカンパネラ時代、「何万年かまた先で/惑星の軌道が重なる/また違う姿で 違う匂いで/気付かなくとも」(「キイロのうた」)という歌詞の背景にある考え方を「人も惑星と同じように決まった軌道を動いていて、出会いというのは、それがクロスする瞬間だと。離れたとしても、きっとまた会えるって」と語っていました(※4)。マヒトさんは「結局、一度出会っちゃった人とはずっと生きていくことになる」(※3)と言っていましたが、通じるものはありますか?

(※4 Fanplus Music「水曜日のカンパネラ ラップの曲はほとんどナシ、新しい要素が満載のニューEP」)

昔は横並びで一緒に歩いていくとか、向かい合ってるとか、そういう構図のことを「関係」って呼んでたんです。でも今は、違う方向を向いて違う方向に進んでいくのも関係のうちっていうか、距離は離れていってるけど、それはそういう関係なんだなと思うようになりました。平行で進んでいったり、向き合って手をとり合ったり肩を組んだりするのは、構図としてはきれいですけど、そこにあるレイヤーは本当はもっと複雑で立体的だと思うんですね。

マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)

死ですら関係を終わらせるものではないと思ってて、その人が遺した言葉とか歌とか思い出とかそれこそ体温とか、そういうものと生きていくわけじゃないですか。一点が止まってもう一点は前に進んでいくって意味では離れていってますけど、その人と生きた時間のイメージが現在の自分に関わってくる限り、関係は終わることなんかなくて、むしろ出会ってしまったらもう終われないんだなって思うんです。その奇跡みたいなことにけっこう救われてますね。コムの惑星の話にも近いと思うんですけど、存在してしまった以上、消えることはできないっていうのが、最近よく思うことです。立体的な、複雑な線の交わりみたいなものを、音楽を作るときにはけっこう大事にしてますね。映画もそういうものを軸に作りましたし。

映画は今、どういう段階なんですか?

もう編集は終わってて、今はプロデューサーが配給会社とやりとりして仕込んでるところです。企画段階から数えると、今も入れちゃえば3~4年かかってるんですよ。映画ってメディアとして圧倒的に遅いなと思いました。最速最短なのは例えばTwitterで、今思ったことをその場でパパッと書いちゃえるけど、映画は4年前に考えたことを4年越しで公開するわけだから、小さなタイムカプセルみたいなものですよね。どのメディアにも向き不向きがあるから、映画は時間がかかるからこそできることをやらなきゃいけないと思うし。俺は音楽やら祭りやら小説やら、いろんなメディアをやってるんで、それぞれの持つ時間や性質のいいところと掛け合わせて一緒に生きていきたいなと思ってます。

今日はありがとうございました。楽しいお話でした。

俺には確信みたいなものはないんですよね。信じてないっていうか、自分のことも、自分の考えも。間違えてないっていう自信は全然ないです。でも今日しゃべってて、その迷いみたいな部分は切り捨ててはいけないなと改めて思いました。

マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)
十三月主催イベント決定
BODY OLYMPIA
2022年6月3日(金)22:00~5:00
会場:東京・渋谷contact
当日 3,500円 / 前売 2,500円
https://eplus.jp/sf/detail/3633870001
UNDER23 / BEFORE11PM 2,000円

撮影/中野賢太@_kentanakano