一度目の夢を諦めて、未経験で“二番目に好きだった”音楽業界へ。安室奈美恵『Hero』やTEE『ベイビー・アイラブユー』を生んだ今井了介の成功術

成功者に貧乏時代に食べていた「貧乏メシ」について聞きながら、当時の思い出やブレイクのきっかけ、仕事の成功術などを聞くこの企画。

今回のゲストは、リオデジャネイロオリンピックNHK公式テーマ曲となった安室奈美恵さんの「Hero」やTEEさんの「ベイビー・アイラブユー」など、多くの楽曲を世に生み出してきた音楽プロデューサーの今井了介さん。音楽シーンを走り続ける今井さんの仕事術や苦労話を、なじみの焼き鳥屋さんで聞きました。

大学中退後、絵の仕事で独立。しばらくは〝具なしピラフ〟で生活

今井さんの近年の代表作品といえば安室奈美恵さんの「Hero」ですが、あの曲にはどんな思いがこめられているんですか?

今井:安室奈美恵さんは小室哲哉さんがプロデュースした約5年間の活動が印象に残っている人も多いかもしれませんが、それ以降にも約20年間ものキャリアがあるんですよ。そんな彼女のキャリアの、集大成となるような曲を作りたいと思いました。彼女が引退する時には代表曲として取りあげていただきましたし、本人も紅白出場の際に「自分自身もすごくこの曲に励まされた」って語ってくれたんです。これは、作り手冥利につきますよね。

今井さんは今や日本を代表する音楽プロデューサーですが、貧乏だった時代なんてあるんですか……?

今井:ありますよ。僕は音楽をやる前に、絵とかグラフィックの仕事がしたくて大学を中退したんです。生まれも育ちも東京なので実家暮らしだったのですが、母から「大学を辞めるなら実家は出なさいね!」と言われて、一人暮らしをすることになりました。

大学を中退というと、当時は20歳前後ですか。

今井:そうですね。その頃の暮らしが一番きつかったです。仕事が安定しないのに、家賃や生活費は毎月出ていくわけですから。仕事も上手くいかなくて、家賃が払えなかったこともありました。

仕事がなかなかこなかったのですか?

今井:いや、少なからず仕事をくれる方もいたんですが、僕自身が若かったので、仕事への思い入れが激しかったんです。クライアントから修正依頼が来ると、「そこ変えちゃうともう僕の作品じゃなくなるんで、結構です!」って言ってしまうんです(笑)。

「お金はないのに強気で。貧乏の沼にハマっていきました(苦笑)」

その時代にはどんな「貧乏メシ」を食べていましたか?

今井:なにせ貧乏なので、外食はせずに自炊でした。といっても、家にも大した材料はないんですよ。あるのはカレー粉とお米だけというときも多かったので、よくカレーピラフを作ってました。ピラフといっても、具なしですけど(笑)。

音楽経験はほとんどない状態で、絵から音楽の世界へ転身

そんな貧乏生活から抜け出すきっかけは何だったんでしょう?

今井:いろいろ葛藤しましたが、結局、絵の仕事をあきらめることにしたんです。ちょうどそのころに、僕の先輩が音楽家の道をあきらめたって聞いて。それで、その先輩に機材を譲ってもらいました。その機材を手にした時に「これは何かお金が生まれるかもしれない」と思ったんです。

音楽経験はあったわけですか?

今井:いえ、実はそれまでバンド経験もなく、きちんと楽器を学んだこともなかったんです。ただ、父はオーケストラのホルン奏者で、母はピアノの先生をしていました。だからなのか、音感はあったんだと思います。子どものころに父のコンサートに行ったんですが、ホルンってそれほど目立つ楽器ではないんです。だから父が吹いている音を聞きたくて、どの人がどのパートをやっているのか、音楽を「分解して」聞く癖がついていました。

すごい環境で育ってますね。

今井:おかげで音楽の構造みたいなものは理解できていたので、これが作曲活動をする上でも役に立ちましたね。僕は最初から人前に立って歌うとか演奏するとかには興味がなかったので、作曲家やプロデューサーなど裏方のプロを目指すことにしました。

絵の仕事をあきらめた後、またクリエイティブな仕事を目指すのは勇気が必要だったのでは?会社に就職しようかな、とは思わなかったですか?

今井:「就職して、スーツを着て、電車に乗って、という人生はなんか違うな」という思いが幼稚園に通っているころからありました。自由にモノづくりをする人間でありたいという気持ちは、ずっと強く持っていたんです。

幼稚園の頃からフリーランス志向!

今井:ただ、唯一企業に属していた時代があるんですよ。自分でも賢い選択だったと思っているんですが、音楽の仕事を始めて最初に東芝EMIにバイトで入ったんです。そこから期間社員になって、契約社員になって。これが唯一の就職というか、社会人生活でしたね。

「賢い選択だった」というのは?

今井:音楽っていうのは権利関係が本当に複雑で、成功したときに大人に騙されるのはイヤだなって(笑)。そこで、大手のレコード会社に入って、業界の中のことを学んだわけです。

なるほど。そして約2年で退社して、23歳で改めてフリーになるんですね。

今井:そうです。辞める前に莫大なローンを組んで機材をそろえ、曲作りができるマンションも借りました。大きな会社だったので、家を借りたり、ローンを組んだりするのに好都合だったんです。

思いきった初期投資ですね。

今井:当時はまだまだ機材が高くて、シンセサイザーやパソコンなど一通りそろえると何百万という時代でした。逆に、そこまでの投資をしていたから、絶対にコレで食ってやる!っていう覚悟はできていたと思います。

満を持して独立するも、再び訪れる貧乏の波

独立してすぐに、仕事はうまく回り始めましたか?

今井:がむしゃらに働いてはいましたけど、ローンも抱えていたので、相対的には貧乏って感じでした。そこから数年は貧乏生活の「第二波」でした(笑)。

すぐに大きな仕事が来たわけではないんですね?

今井:僕のやりたい音楽は明確で、まだ日本ではメジャーではない「R&B」だったわけです。でも、それをやっている人がいなかったので誰にも弟子入りはできないし、そういう音楽を求めるクライアントを探すのに苦労しました。日本にはまだないカルチャーだったので、デモを持って行っても「サビで転調しないの?」とか「もっと高い声で歌わないの?」とか言われて(笑)。

新しいものを世に出すというのは大変ですよね。

今井:でも、絵をやっていたころよりは、いろいろな人の意見を柔軟に聞けるようにはなれていましたね。会社勤めをして多少なりとも社会を知ったということもあったけど、絵は「一番やりたいこと」だったのに対して、音楽は「二番目にやりたいこと」だったからかもしれません。

1999年の『shake』でついに掴んだ成功!

苦労した時代から抜け出したきっかけは?

今井:1999年に出たdoubleさんの『shake』という曲がヒットしたことですね。この曲は今聴いても絶対的にカッコいいけど、日本のポップスとしては相当トガったことをやっていたと思います。転調もしなければ、歌い上げるようなメロディーもない。こういうチャレンジングな曲が世の中に認められたのは、すごく意味のあることだと思っています。

このかっこよさにしびれた人は多いはず!

ヒット曲が生まれたことで、生活に変化は?

今井:20代の若者が見たことのない額が、ある月にいきなり振り込まれてきました。でも、人って身の丈に合わないお金の使い方ってヘタクソなんですよね(笑)。そのころ好きだった女の子と外国に日帰りでランチを食べに行ったり、無駄な使い方をいっぱいしました(笑)。

リッチ!お金以外での変化もありましたか?

今井:1999年は僕が28歳のときなんですが、30歳を前にして気付くことも増えました。どんなに才能ややる気があっても、家庭の事情や体調の問題で、やりたいことをやれない人もいる。音楽で生活できていることの尊さみたいなもの感じるようになりました。

若くても無名でも「いい曲を書ける人間」とは対等に向き合う

今井さんが仕事をする上で大切にしていることってどんなことですか?

今井:「イコーリティ」を保つことを大切にしています。人によって態度を変えるのはイヤですね。相手が年下でも、それは一緒。僕は、いい曲を書けるヤツが優勝って思ってます。若かろうが、無名だろうが、こいつはスゴイって思う人ならば作り手として対等に向き合っていたいと思っています。

苦手なタイプの人とでも……?

嫌な人に会っても、二度と会わなければいいだけなので、その場は我慢してニコニコ丁寧に接します。フリーランスって、どの人と付き合っていくか、ある程度選べる人生ですから。例えば独立したてのころ、クラブでアーティストのイベントをやっていたんですが、このお店の店長さんはそのクラブのバーテンさんだったんです。彼も音楽が好きで、同じ時代を同じ価値観で生きた同志という感じで、今でも付き合いが続いているんですよ。

年齢を重ねたからこそ、できる仕事がある

ご自身の年齢って気になることあります?優秀な若手がどんどん出てくるな……みたいな。

今井:「Heroやベイビー・アイラブユーみたいな曲が書ける、若くて安くて言うことを聞いてくれる作家いませんか?」とか失礼なことを言ってくる人はいっぱいいますよ(笑)。

そんなことを聞かれるんですね!そういうときはどう答えるんですか?

今井:僕は、2004年に作家やプロデューサーのエージェンシーである「タイニーボイスプロダクション」という会社を立ち上げたんです。そこで若手の育成もやっているので、失礼な人だな、と思いながらも自分のところの若手を紹介します(笑)。

「超いい子いますよ!」って紹介しちゃいます(笑)

でも、若手育成って自分のライバルを増やすことにもなりますよね?

今井:はい。でも、そういう仕事を「僕がやります!」って言うと若い子が育たないし、音楽業界も成長していかないんです。

若手が台頭してきて、ご自身の仕事がなくなるかも、という恐怖は?

今井:それは毎日思ってます。でも、音楽って若いことが圧倒的に有利になる部分と、たくさん曲を作って熟成してくる才能と2種類あるんです。年齢を重ねることによってしか書けない詞とか情感、言葉の間引き具合とかもあるので、そういうところで若手とうまく棲み分けができると思います。

いろいろな人を応援するアプリ開発にも挑戦

今井さんは今、音楽だけでなくアプリ開発も手がけていらっしゃるとか。

今井:『ごちめし』というアプリを昨年の10月にリリースしました。簡単に言うと、アプリを通じて登録店舗に事前にお金を払って、自分以外の人にごちそうするというものです。応援している売れないミュージシャンとか、役者さんを支援してあげることもできます。お金に余裕のない人だけじゃなく、遠方に住んでいるとか、予定が合わなくて会えない友人の誕生日にプレゼントするとか、さまざまな使い方ができます。

とっても優しいサービスです

どういうきっかけで始めたんですか?

今井:帯広にある定食屋さんがやっていたんですよ。例えば、400円のうどんを食べにきたおじさんが、もう400円払う。すると、お店の前のボードの正の字が一本増える。それを見た高校生とかが、そのうどんをタダで食べられるというシステムです。これをアプリにしたら面白いじゃんと思ったんです。

温かいサービスですね。最近は新型コロナウィルスの影響で打撃を受けている飲食店を応援する「さきめし」もリリースされたとか。

今井:はい。応援したい飲食店へ、「ごちめし」を通じて食事代を先払いして、新型コロナウイルスが終息した後に店に足を運んでもらおうという取り組みです。 

そんな今井さんが思い描く、ご自身の今後ってどんな姿ですか?

今井: 30代になったころから、ノートパソコンとカバン一つの荷物で曲が作れるようになって、完成した音源もインターネットでどこからでも納品できるようになりました。だから、世界中を旅するように音楽を作っていきたいと思っています。飲みに行くと「最近の音楽業界はつらいよね」と言っている人もいますけど、僕はめちゃめちゃ楽しいですよ(笑)。

ありがとうございました!

企画:木村タカヒロ 撮影:須合知也 文:田中大輔

取材協力:「炭火やきとり 狼煙(のろし)
新鮮な地鶏を使用した焼き鳥が楽しめるお店。お酒の種類も豊富です。

貧乏メシ スペシャル特典!!
FREENANCE MAGを読んだ方に、今井さんの開発したアプリ「ごちめし」より、今回の取材協力店/炭火やきとり 狼煙の「おまかせ5本串(5名様)」「3冷ホッピー(5名様)」をごちそうします!
「ごちめし」アプリをダウンロードして、お店でQRコードを読み込み、お食事をお受け取り下さい。現地にて無料でお召し上がりいただけます。
1本1本に個性があって美味!「おまかせ5本串」
profile
今井了介:音楽プロデューサー。1990年代後半より、R&BやHIP HOPのトラックメーカー・リミキサーとして活動を開始する。1999年にプロデュースしたDOUBLEの「Shake」のヒットで注目を集め、以降、安室奈美恵、MINMI 、BENNIE Kなど人気アーティストの楽曲を手がける。2016年には安室奈美恵の「Hero」(リオオリンピックNHK公式テーマソング)の作詞・作曲・プロデュースを担当。同曲で2019年JASRAC賞金賞を受賞した。
<ごちめし>
どんな遠方からでも、アプリを通して・人さまに・お食事をごちそうできるサービスです。
https://gochimeshi.com/

<さきめし>
自分の大好きなあの店へ、今すぐできる、応援方法。
https://peraichi.com/landing_pages/view/sakimeshi

<さよなら、ヒット曲> 発売中!
今井さんの音楽との出会いや人気プロデューサーになるまでの過程、そしてヒット曲を生み出すまでのエピソードなどを綴った1冊。過去から現在、そして未来まで、独自のプロデュース論が綴られています。