世の注目を集める記事を次々に発信したことから“バズライター”と呼ばれ、3年間のニューヨーク生活を経て2021年に帰国された文筆家の塩谷舞さんが、2冊目の著作『小さな声の向こうに』を出版されました。波乱万丈な日々の中で「ささやかな美しさを探しながら、それを文章にしていくことがセラピーになった」と語る塩谷さん。
美術や音楽、そして日々の暮らしに宿る“小さな声”に耳を傾けながら、かき消されてしまいそうな美しさを礼讃している本書はまるで、現実社会の中で疲弊しがちな人々を「あなたはひとりではない」と抱擁するよう。本作を執筆した背景や骨子となるテーマについて、じっくりとお話しいただきました。
文筆家/エッセイスト。1988年大阪・千里生まれ。2018年からNYでの生活を経て2021年に帰国。noteメンバーシップ『視点』更新中。著書に『ここじゃない世界に行きたかった』『小さな声の向こうに』(文藝春秋)がある。
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「ささやかなものを共有できる人」の存在
2018年にニューヨークに移住され、帰国されたのが2021年。本書『小さな声の向こうに』ではその間の3年間の日々が書かれていますが、なぜ“現代社会でかき消されがちな小さな声”をテーマに編纂しようと考えられたんでしょうか?
2021年頃は、疫病や大統領選、人種差別といった社会の大きな問題に加えて、日常でも水面下に抱えていた問題が表出してしまい、心身ともに疲弊していた時期でした。
それまではずっと、自分の暮らしのことを赤裸々に書いてきたし、そうした姿勢を前作『ここじゃない世界に行きたかった』で評価していただくこともありました。でもそうやって、自分や周辺を世間に晒していくような書き方は失うものもあります。さらに当時は、疲弊するあまり感情を全て閉じてしまったような感覚で、なにかに喜んだり、怒ったりする気力もなくなってしまったんですよね。
わかります。負の感情に耐えきれずに、自ら感情を麻痺させてしまうんですよね。
大きな音が鳴り響く空間や、刺激的な物語にも一切心が動かない。ただそんな中で、ささやかな美しさであれば心が受け入れられたんです。梅の花であったり、誰かが心を尽くして作り出した器であったり。そうした琴線に触れる美しいものを探しているうちに、外に出る活力や、なにかを調べようという気力も戻ってきた。今ここにある美しさの正体は何なんだろう? という好奇心と共に、あらためて文章を書き溜めていきました。
そういった視点で書いていたエッセイが、一冊の本になったんですね。
はい。美術や音楽などの芸術、そして暮らしや自分自身の身体のことなど話題は幅広いのですが、どんな対象であれ「小さな声に耳を傾けてみよう」という意識が根底にあります。喧騒の中であれ、小さな声で話してみることによって聞こえてくる、見えてくることが必ずある。そうした小さな声の持つ力を言葉にすることで、自分自身の世界がうんと豊かになるし、近しい感覚を持つ人と巡り合うことも叶います。
互いの感性を侵食せず、守っていくには
現実社会の中で疲弊してしまう人たちにとっては、「ひとりじゃないんだ」と抱擁されるような一冊でもありますね。ただ、そうした繊細さを持って生きていると、こだわりが強くなりすぎたり、許容できる範囲が狭くなってしまうこともあるのではないでしょうか。
そうですね……。繊細なものを深く愛する一方で、「こんな音楽は耐えられない」「こんなテレビ番組は見たくない」と、生理的に受け付けられないものは確かに多いです。ただそのことによって、今の夫と一緒に暮らし始めた頃に辛い思いをさせてしまったことがありました。
家の中に存在する全てのものを私の基準で揃えていたところ、「家の中なのに気が休まらない」と。私にとっては安心できる空間でも、夫にとっては好きな音楽も聴けず、娯楽としてのテレビ番組も観れずで、我慢ばかりだったようです。私は、ささやかな美しさについては心を尽くして理解しようとする一方で、夫が息苦しさを感じていることにはさっぱり気がつけていなかった。相手の嗜好を無意識に否定していたことに反省しました。
思い返せばその頃、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』のような思考に強い影響を受けていました。陰影を慈しむ日本の暮らしを是として、そこに馴染まないものは一切受け付けない。けれども、そうして多くのものを排除することで美意識を守っていると、やはりどんどん生きづらくなってしまうんですよね。谷崎自身も、実際は明るいモダンな部屋で暮らしていたという話もありますし……。
それぞれの感性をいかに侵食しないで守っていくか?というテーマは、本書を読んでいて強く感じました。とても難しい話なんですけど。
「言葉にせずとも、分かってくれるだろう」と思ってしまう相手だと、余計に難しいですよね。昨年から、海外の友人を自宅に泊める機会が度々あるのですが、その場合はライフスタイルが違って当たり前。外国人であれば文化の違いも寛容に受け入れられるし、必要なときは言葉で「うちの風習はこうだから」と伝えることも出来ます。でも恋人や家族が相手となると、なぜか「自分と近しい感性を持っているはず」と思い込んでしまう。
実際は、同じ日本人、同じ年代、同じ性別であったとしても、家族構成や嗜好の子細は異なります。異国の友と手を取り合い、文化を学ばせてもらうときと同じ気持ちで、今は家族や近しい友人と接するように心がけています。
わかりやすく伝えるということ
今回の章立ては編集の方が? 1、2章は芸術や暮らしの話、3章は不妊治療などの身体の話、4章は他者との話、5章はまた芸術の話、という構成になっていますね。
そうですね。ある程度は時系列を守りながら、近しいテーマごとに章に分けています。ただ、不妊治療の話であったり、ポカリスエットの少女の話はnoteでの公開時にも大きな反響があったので、そうしたものをもう少し前に出したほうが良いのでは? という案もあったのですが、そうするとこの本全体を通して伝えたいテーマがぼやけてしまう。ですから、1、2章では私が最初に伝えたかった「暮らしの背骨を取り戻す」こと、つまり生まれ育った土地に脈々と受け継がれてきた美しい文化を取り戻し、その上で現代の美しさを追求していきたいという話を中心に据えています。中でもニューヨークで出会った画家のAesther Changとのエピソードが象徴的だったので、冒頭に選びました。そうした構成になったことで、「最初から美術の話は敷居が高い」という意見もありましたが……。
否めないですね。ある程度の知識がないと、ついていけないイメージはあります。
私にとって美術は、大学時代からずっと執筆してきた分野ではありますが、20代の頃は「興味がない人にとっても、出来るだけわかりやすく」という意識で書いていました。ただそうすると、社会の大多数が常識だと捉えている価値観に沿いすぎてしまったり、わかりやすく答えを提示してしまったりすることも。
そうした文章は親切である一方で、読み手の読解力や創造力を低く見積もっているとも言えます。書き手である自分も「わかりやすさ」に囚われてしまい、すぐ答えを求めてしまって成長しない。さらに、わかりやすさに重きを置いている場合、「答えを教えて欲しい」という人に取り囲まれてしまうんですよね。自分で考えるということを疎かにしてしまう。
今も難解な文章を書きたい訳ではありませんが、答えばかりを訴求するのではなく、曖昧さを許容するものを書きたいと思っています。そして以前であれば、わかりやすい言葉に置き換えたり解説を入れたりしていたような語句であれ、最近は「わからない場合は調べるか、意味を想像してくれるはず」と思ってそのままにしていることも多いですね。
なるほど。「わからないと読んでもらえない」から「わからないなら調べてもらおう」にシフトチェンジしたんですね。
そうした文章を書いていると、読者の方からの反響も一歩踏み込んだものになってきて、鍛えられるんです。
ただ、読みやすさに関わってくる部分で言えば、情報と感情のバランスには気をつけています。たとえば研究論文などは情報が中心なので、純度は高いけれど市井の人が読むことを前提としていない。一方で、感情的に書かれたブログなどは、読んでいて疲れてしまうこともあります。私の文章では、学術書などをチェリーピッキングにならないよう気をつけながら引用しつつ、ときどき個人の視点を混ぜていることが多いです。情報と感情が適切なバランスで配された文章は、読みやすく、伝わりやすいものになるんじゃないかな、と。そして、積み重ねの大切な学問の世界と、感覚的な世界の橋渡しが出来るのであれば、もっと世界は豊かで強いものになるのではないか……とも信じています。
人は理想を抱くもの
実際、本書でも学術書などの引用が多数出てきましたが、そういった情報を得るためにどんなアプローチをされているんですか?
図書館で調べたり、本に出てくる参考文献を辿っていったり……ということもありますが、SNSで研究者の方をフォローしたり、友人になることが多いです。分野の前線にいる方がリアルタイムで発信されている情報ってなかなか流通しませんし、純粋に興味深い方が多いので、仲良くさせてもらうととても楽しい。気になった講演会があれば足を運んで、質問させてもらうことも。東京は、美術館や大学の市民講座が充実している点はありがたいです。
一方で、読者の方からは「新規事業のプレゼンに使わせてもらいました!」といったような声も時折いただくんですよ。「これからの時代はこうした価値観が大切になるのではないか?」という私の提言を、商いの中で活かそうとしてくださっている。デビュー作である『ここじゃない世界に行きたかった』は、そうした用途も見越してビジネス書の棚にも置きました、と報告してくださる書店員さんもいらっしゃいました。
様々な要素を混ぜて文化や社会を耕していく、というのは文章が持つ重要な機能のひとつ。文章に込めた願いが広が形を変えて広がっていくのは、とても喜ばしいことです。
一般読者に向けた著作でありつつ、ある意味では“BtoB”でもあるんですね。
「美しさ」という評価基準を、社会全体がもう少し大切にして欲しい。そうした願いを伝えるために文章を書いているところもあるので、さまざまな場所で生きる方に役立てていただけるのは本当にありがたいことです。
ただ、ときには「あなたは子どもがいないから、美しく暮らすことが出来るのでしょう」と言われることもあります。確かに、今取り組んでいる不妊治療が上手くいって子どもに恵まれたのであれば、そのときは私の暮らしもガラリと変わってしまうかもしれない。
お子さんがいたら「手作りじゃないと」とか、「このオモチャは私の趣味とは違う」とか言ってられない状況になるかもしれないですしね。
今も手作りばかりではありませんが……。でも、私はきっとどんな状況であれ、美しさについての理想を抱き続けるのだろうとも思います。これまでもずっと、「美しい世界を見てみたい」「こんな暮らしをしてみたい」という理想が自分を動かしてきました。今も都会の賃貸暮らしなので、理想通り……という訳ではありませんが、それでも自分好みにしつらえた空間の中で文章を書いたり、古琴を弾いたりすることで、心が救われています。
暮らしに誇りを持つ
今“理想”という言葉を聞いて、ある意味安心しました。塩谷さんの美意識についていくには心身両面での余裕が必要そうで、それが無い人は逆に辛く感じてしまうかもしれませんから。
嗜好が異なるのであれば、無理をして「ついていく」必要はないのではないでしょうか。実際、私が古琴を弾いている隣の部屋では、夫の趣味のスーパー戦隊シリーズの合体ロボが飾られています。でも、もし願う世界が重なる相手がいるのであれば、手を取り合いたい。そうした相手と出会う手段として、本というのはとても役に立ちます。
最近のSNSでは、「これが好き」「今日は嬉しいことがあった」というポジティヴな話ですら、叩かれてしまって素直に書けないことが多い。本であれば、「私はこれが好きなんです!」ということを安心して書くことが出来ます。
良い話だからこそ書けない、ということが起き得る時代ではありますよね。
私も心に余裕がなくて、誰かのキラキラとした日常を見たくない時期もあったので、そうした気持ちは少しだけわかります。ただSNSに公開せずとも、暮らしに誇りを持つことは、毎日の活力に繋がります。
たとえば、とある研究室の内装について相談を受けたことがあったんですね。これまでは青いマットが敷いてある無機質な空間だったところを、フローリングを敷いたり、部屋の一部内装を変えたりする提案を実現可能な範囲でさせてもらいました。そうしたプランをもとに研究室のメンバーが一丸となって模様替えに取り組まれたところ、雰囲気がガラリと変わったそうです。見た目が変わっただけではなく、学生さんが研究室に来る頻度が上がり、会話も弾むようになったのだとか。
なるほど。美意識を活かすことの日常における効用が、非常によくわかる話です。
自分たちで創り上げたことで、愛着も増したのかもしれません。でも、そうやって居心地の良い空間を求めることが「贅沢」や「無駄」だと一蹴されてしまう日本社会の風潮を度々感じて、残念に思っています。自分に誇りを持ったり、自分を喜ばせたりすることが、ナルシズムと混同されてしまっている。
特に住環境に対する興味は、海外の方に比べて格段に薄い傾向はありますよね。
海外……といっても、私は数年間のニューヨーク暮らしと、束の間のダブリン暮らしの経験しかないので比較対象が乏しいのですが、「暮らしが好き」という人でも地域によって興味関心のベクトルが異なるように感じます。日本では、衛生的に暮らすことや、整理整頓に大きな関心が向いているけれど、心を満たすことは二の次になってしまいがち。でも、多くの日本の家は一昔前、床の間のような鑑賞のための場所を持っていたんですよね。どうしてそうした文化が廃れつつあるのか? という点を、『小さな声の向こうに』でも取り上げています。
1章の「古く美しい暮らしは、なぜ消えた?」という文章ですね。2章でも暮らしや芸術の話を、続く3章、4章では不妊治療の話だったり、他者との関わりについての話もありますが、本書で一番伝えたかったことってズバリ何でしょう?
全体の骨子になっているのは、5章で取り上げる「小さな声」のエピソードでしょうか。私は子どもの頃に演劇をやっていたのですが、そのとき演出家の先生が「喧騒の中で、話を聴いてもらうにはどうしたら良いと思う?」と問うてきたんです。劇団員たちは様々な注目を集める方法を答えたのですが、先生は「小さな声で話すこと。そうすれば、周りの人は音量を下げ、耳を傾けて、あなたの声を聴いてくれますよ」と教えてくださいました。その言葉を聴いたのは小学生の頃でしたが、ずっと心の中に残っていた。
ただこの本を書きながらあらためて理解したのが、小さな声に耳を傾ける側にも、技術が必要だということ。黙って耳を澄ませておけば良い……という訳ではなく、知性を蓄え、感性を開くことで、ようやく本当の意味で相手を理解することが出来る。
たとえば5章でご紹介している絵本研究者の正置友子さんは、絵本に描かれていることを感性豊かに受け取られるだけではなく、作者のバックグラウンドや社会情勢などの豊かな知識を持って、絵本を深く読み解かれている。まさに「小さな声」の翻訳家です。
正置さんが人生をかけて絵本を読み解いてきたその姿を目撃すると、私はまだまだ表層的なものの見方をしているのだろうな……とも感じます。今この眼の前にも、自分が気づいていなかった小さな美しさや、気づいていなかった声があるのに、それを見過ごしているのかもしれない。ということは、感性をひらき、学び続けていくことで、日々はもっと刺激に満ちた面白いものになっていくはず。そう思えた瞬間、やるべきことはここにも沢山あるのだと、あらためて嬉しくなりました。
撮影/中野賢太(@_kentanakano)