独立4年目の小沢あやが、さまざまな業種のフリーランスに話を聞く連載『フリーランスな私たち』。今回のゲストは、元タカラジェンヌの天真みちるさんです。
宝塚歌劇団では個性的な「おじさん」役を追究し、独特の存在感を発揮してきた天真さん。退団後は30代にして初めて会社員を経験し、現在は自身で『株式会社たその会社』を設立。舞台などの企画・脚本・演出を手がけ、自身も舞台に立っています。そんな天真さんに、独立を決意した経緯や仕事をする際に大切にしていることを聞きました。
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30代で初めて会社員に。できないことも多かったけれど、得意を武器に
小沢:天真さんは2018年に宝塚歌劇団を退団後、まずはご友人が立ち上げたエンタメ関連の企業で社員になったんですよね。
天真:はい。舞台に限らずさまざまなエンタメを学びたいと思い、やる気たっぷりで入社しました。でも当時は、自分が「元宝塚」ということは、周囲にはあまり言わなかったんですよ。
小沢:なぜでしょう?
天真:自分は「トップスター」ではなかったし、ファンじゃない方は知らないだろうな……ぐらいの気持ちだったんです。そんな中、「もともと宝塚にいて」と話すのに違和感があったというか。
だから、身分を隠して社会に……という点では『ローマの休日』気分もありました。でも、名刺が「天真みちる」と明らかに芸名であるのを突っこまれるし、結局過去を説明することになるから、どちらかというと『暴れん坊将軍』なんですけど(笑)。
小沢:正体がバレてしまうっていう(笑)。天真さんの会社員としての滑り出しは順調でしたか?
天真:それが、最初の3カ月はできないことばかりで、本当に仕事が向いてないと思いましたね。1つ目の会議から、他の人が何を言っているのかわからなくて……。社長が取引先と気軽に話せる場を組んでくれても、どんな準備が必要で、何を聞けばいいのかわからず。情けなかったです。
小沢:宝塚も仕事ではありますけど、ちょっと領域が違いますもんね。
天真:それに雑談でも、どこか自分は浮いている感じがしたんです。ミステリアスな方が多いタカラジェンヌの中にいたときは、「劇場に自転車で通うわたしは庶民派だな〜」と思ってたんですが……(笑)。一般的な生活とはかけ離れたところにいたんだな、と実感しました。
小沢:異業種転職もそうですけど、これまでと違う文化圏にきたときって、「わたしにできることってなに?」って思いつめたり、不安になったりすることもありますよね……。
天真:そうなんです。私は、ビジネス文書がなかなか理解できなかったです。宝塚の台本って、会話じゃないですか?だからスラスラ読めてたんだなと。自分が会社員になって議事録をとるときも、「取引先A『今回のプロジェクトは……』取引先B『承知しました、それでは……』」って、セリフが並ぶ脚本みたいな議事録になっちゃうんです(笑)。
小沢:その議事録は読んでみたいです(笑)。そこから、天真さんはどうやって会社員としてできることを増やしていったんですか?
天真:エンタメ関連の会社でしたから、エンタメの現場に関わる機会もあったのですが、そういうときはすごく動けたんですよ。お水を用意したり、衣装を管理したり。宝塚で上級生を見て学んできたことです。「自分に染みついていて、他の場所で役立てられることもあるんだ」と噛み締めました。そのうちに、現場で動いて感じたことを会議でも言えるようになってきて。1ミリずつ、できることが増えたかなと思います。
小沢:これまで培ってきた現場目線が生かされたんですね。
天真:ただ、制作ポジションとして働く中で予算組みにも参加する機会があったんです。そのときは、自分は現場の意見を重視しがちだったので、「あぁ、これはうまくできないかも」とも当初は思いました。
小沢:そういう数字は、宝塚にいた頃は触れる機会はなかったですもんね。
天真:はい。演者さんらに支払う報酬を含め、どこにどのぐらい予算や利益が割り振られているのかを初めて学びました。そんな中で、「もし自分が制作側を1人で回したら、どんな割合になるのかな?」という興味も湧いてきました。関わる一人ひとりを把握して、自分で予算も考えていけたら、これまで以上に責任感を持ってプロジェクトを進められるんじゃないかという気持ちもわきました。
小沢:なるほど、そして独立の道へ……!
トップスターではなかった自分でも「元宝塚」を背負っている
小沢:天真さんが独り立ちしてから、すぐに新型コロナウイルスの流行が始まりましたよね。舞台やイベントの企画業ですし、もどかしい思いをされたのでは?
天真:そうですね。でも、一瞬「助かった」って思った自分もいました。2020年の初めは、元いた会社にいただいた案件や、直接お問い合わせいただいた案件が予想以上にあったんです。ありがたすぎて、「全部やります!」となってしまい、ひと月に3つの脚本を掛け持ちすることもあって。忙しすぎてパンクしちゃいそうだったんです。
小沢:いただいたお仕事をついつい引き受けたくなっちゃう気持ち、わかります。
天真:もう、脚本を書けど書けど間に合わない。迫り来る締め切りの波に襲われ、気づいたら5時間くらい過ぎていた……みたいな状況だったので。「これでちょっと休めるかも」と、一度全部、書くのをやめたこともありました。
小沢:お休み期間は、どんな風に過ごされたんでしょう?
天真:これまで溜めていた本や映画を全部見て、映像系のサブスクリプションサービスをいっぱい契約しました。それがすごく楽しくて(笑)。尽きそうだったアウトプットの源泉を、たくさんインプットできました。
小沢:創作にインプットは必須ですもんね。いい時間になってよかったです。
天真:そうしているうちに、エンタメ界でも舞台などを再開する動きが生まれ始めました。でも、宝塚はなかなか再開が難しく……。苦しんでいる現役の生徒と電話をしたりする中で、ちょっとでも「助かった」と思ってしまった自分が恥ずかしくなりました。「宝塚にいた」ということをプロフィール欄に入れるようになったのは、この頃でしたね。
小沢:なぜそうしたんでしょう?
天真:たくさんのお客さんがまた観に来てくれることを夢見て頑張る人たちがいることに、感化されて背筋が伸びたというか、ルーツに立ち戻れたというか……。自分も「元タカラジェンヌ」を背負っていたんだと、よくわかったんですよね。
小沢:元宝塚だとアピールするようになって、お仕事にはどんな影響がありましたか?
天真:「宝塚にいたから」ということで築ける信頼関係がありました。どれだけ宝塚に助けられてきたのか、辞めてからあらためて気がつきましたね。しっかりと宝塚出身を名乗って話し、そのぶん宝塚に感謝していこうと思ったときに、エッセイ『こう見えて元タカラジェンヌです』連載の話をいただいたんです。
エッセイに人の名前を出すなら、その人の素晴らしさを伝えられるように
小沢:脚本のお仕事はされていたものの、エッセイへの挑戦は初めてだったんですよね。やってみて、いかがでしたか?
天真:もともとは、同期の舞台の感想すら、色々と考えた末に「よかったよ」の一言しか送れないタイプ。依頼をいただいたときは自分に書けるわけがないと思ってました。でも、宝塚には忘れられない記憶がたくさんあって。初めて受験して落ちたところまでで、箇条書きでも5,000字になったんです。「これはいける!」って。エッセイなので文体も口語調でいいので、会社員時代の議事録に比べたらどんどん書けました(笑)。
小沢:天真さんのコミカルなエッセイ、本当に面白いです。書く内容はどうやって決めたんですか?
天真:宝塚に関してこれまで書かれているものは、マナーや立ち振る舞いなど、自己啓発に近い内容が多い印象でした。でも、自分は宝塚で厳しく指導されてきた人間。日々の過ごし方や、どう怒られてきたかを書いたら面白いんじゃないかと(笑)。
個性が出る語り口や描写のヒントは、さくらももこさんや宮藤官九郎さんのエッセイから得ました。これまで知られてこなかった世界だからこそ、稽古場の情景が目に浮かぶような書き方をと、連載する中で少しずつ考えていきました。
小沢:脚本を書いた経験やタカラジェンヌとしての視点が、エッセイにすべて活かされているんですね……!
天真:そうかもしれません。どう書いたらいいかわからなくなったら、まず編集の方に喋ってみて文字に起こしています。エッセイは、結論に至るまでを細かく書けるのがいいところだとわかってきました。
小沢:宝塚は、憧れる人も多い歴史ある団体ですよね。わたしだったら「ここまで書いてもOKかな……?」と悩みそうな気がするんですが、天真さんはどうですか?
天真:わたしも死ぬほどビビリなので、エピソードの取捨選択はあれでもかなりしているんです(笑)。誰かの名前を出す場合は、その人の素晴らしさを伝えられたらいいなと思って書いています。人を貶めるような事は書かないですね。あとは、誤解が生まれそうな断言を避けることも心がけています。