著者いわく「初めて他人に読んでもらおうと思って文章を書いた」というデビュー作『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』は、自費出版にもかかわらず19刷・累計1万部の大ヒットに(2024年5月時点)! 8人組コントユニット・ダウ90000を主宰する蓮見翔さんが、YouTube番組で“嫉妬したクリエイター”としても名前を挙げた小原晩さんの文章には、どんなに辛い日常風景でも、なぜか温かな気持ちになれる魔法がかかっています。
昨年10月には初の商業作品として、書き下ろしエッセイ集『これが生活なのかしらん』も上梓。異例のヒットが生まれるまでの経緯と、「エッセイ自体が欲していることを書く」という執筆へのこだわりについて、お話しいただきました。
作家。1996年東京生まれ。2022年にエッセイ集『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』を自費出版しデビュー。2023年9月には初の商業出版となる『これが生活なのかしらん』(大和書房)を発表。現在は、シンガー・ソングライターみらんとの交換日記『窓辺に頬杖つきながら』(NiEW)をはじめ、『たましいリラックス』(ZEROMILE)、『お星さんがたべたい』(北欧、暮らしの道具店)、『はだかのせなかにほっぺたつけて』(小説丸)を連載中。
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作家としてのはじまり
2022年の春に『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』を自費出版されたことからすべてが始まったそうですが、どういった形で販売を始められたんでしょう?
「文フリ(文学フリマ)とか出てたんですか?」と聞かれたこともあるんでけど、文フリは一度も参加したことがなくて、最初は東京の独立系書店に置いてもらったんです。普通にお客さんとして本を買いに行って、この本屋さんに置いてもらいたいと思ったお店に「こんな本を作りました」とメールを送って。
まったく何のコネクションもないのに?
1人だけ書店員の友人がいました。でも、あとは知り合いすらいなくて。ただ、一軒一軒訪問して、どうしてここに置いてほしいのか? 自分の本はどういう本で、どういうことを大切に書いたのかというのを書いた上で「よければ見本をお送りさせてください」とメールをお送りました。
いろんな書店さんから信頼を置かれているお店が扱って下さったこともあり、SNSで感想をポストしてもらえるようになってからは、お店の方から連絡をいただけることも増えました。おかげで初版の200部はすぐに売り切れて、次に刷った200部もすぐなくなって、おろおろしながら追加で600部刷って、1,000部になるまでがたしか1カ月ぐらい。
自費出版で、それはすごい! 完全に自分の実力だけで評判を勝ち得ていったんですね。
どうですかね……。運がよかったんだと思います。2,000部あたりからは、各書店の店主の目を信用しているお客さんたちが「なんか最近この本をよくみるかも」って買ってくれるようになった気がします。ただその段階ではもちろん商業出版のお話はどこからもなかったので、コツコツ自分のやれること、やりたいことをやっていこうと考えていたら、大和書房さんから連絡をいただきました。それで2冊目の『これが生活なのかしらん』を出したという流れですね。
やり残していたことをやろう
『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』を出した時点で、作家として生きていこうという覚悟は、すでに決まっていたんですね。
ずっと書いていきたい、ということは決まっていたけれど、これで食べていこう、というところまでは思っていなかったです。たぶん。もうあんまり覚えていないんですけど。でも単純に、貯金がなくなる前にやり残したことをやろう、と作った本なので、その後の将来について当時どう考えていたのか、自分でもさっぱりわかんない。
そこは今回伺いたかったところで、『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』を読ませていただくと、お昼から映画やカフェに行ったり、夜中にお散歩したりと、書かれている日常があまりに優雅で「この人、何をして暮らしているんだろう?」と不思議だったんですが、当時の状況ってどんなものだったんでしょう?
なんにもしてなかったです。『これが生活なのかしらん』にも書いた通り、仕事をやめて、お金だけがあるという状態で2年くらい過ごしました。
その間は周りの友達にも「フリーランスでちょっと、まあ、やってる」みたいな嘘をついていて、時々不安になって1年に1回ぐらいは正社員で働いてる友達に「就職とかを考えている」って相談したりしたんですけど、「無理だよ、小原は会社で働けないよ」って言われて(笑)。たとえば、上司に訳のわからないことだったり、理不尽なことを言われても「わかりました、すいませんでした」って言える?って諭されて。言えるわけがないなあ、と思って、働きもせず、またぶらぶらと、みたいな感じでした。
ただ、過去に美容師として働かれていた時代の体験談を読むと、かなり過酷な環境で働かれていますよね。これが耐えられるなら、普通に会社員もやれそうな気がしますよ。
いえ、美容師時代もずっと文句や意見があれば言ってましたし、ひとりきりで成果をあげられるようなものは得意だから上の人には好かれても、チームワークとなるとすごく緊張してしまって、ぽんこつが丸出しになるので、現場では全く使えないやつでした。そういえば最近、小学校の頃からの友達にも「何かあったらすぐ逃げてたね」って言われて、本人はおぼろげにしか覚えていないんですけど、確かに嫌なことがあると、教室からから飛び出したりしてたんですね。
我慢ができないというか、帰りたくなったら帰りたいし、やりたくないって思ったら、もうやれなくなっちゃう。だから過酷な環境には耐えられても、自分が「おかしい」と判断したことに頷くのは耐えられないんです。だから『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』が全然売れなくて、貯金も底をついていたとしたら、本当にどうしていたのかわからない。でも、書くこと自体は続けていたと思います。
「こうやって言葉になったんだから良かったんだ」
ということは、やはり小さい頃から本を読んだり、文章を書いたりすることはお好きだったんでしょうか?
学校で嫌なことがあって泣いて帰ってくると、名言が載っているホームページをずっと眺めては今の自分にしっくりくる言葉を探したりしていたので、昔から言葉は自分にとって大切だったんだとは思います。書くことに関しては、作文の授業のたびに先生が良いと思った作品を匿名でみんなの前で朗読する時間があったんですけど、成績のよくない私の作文を、なんでか先生はよく読んでくれて、あれはすごく嬉しかったですね。
でも、親とか兄弟とか友達に本が好きな人はいなかったので、あんまり本と出会う機会はなくて。自分が本や言葉を好きだということに気づくまでには、かなり時間がかかりました。
気づかれたのはいつ頃だったんですか?
中学生の頃からお笑いが好きで、特にピースのコントが大好きだったんですけど、社会人になって忙しくしているうちに、ピースの又吉(直樹)さんが芥川賞作家になっていて。仕事が落ち着いてきたときに『東京百景』というエッセイ集を読んでみたら、すごく面白くて、そこからいろんな作家さんに繋がっていって、いろんな本を読むようになって……だから、19歳ぐらいですかね。
自分で文章を書き始めたのは20代になってからで、それも自分の記録として書いていて。本当に心にあるものを言葉にしただけなんですけど、それが文字に起こされたとき「こうやって言葉になったんだから良かったんだ」と思えた時があって、不思議な感覚でした。
そもそも小原さんの文章って、言葉の使い方が独特ですよね。特に『これが生活なのかしらん』は“ふわふわ”とか“たんまり”とかひらがなの擬音語的なものが多くて、とても柔らかくて心が温かくなるような心地になる。
そういうのが好きだから、というのがあると思います。たとえば、種田山頭火の日記を読むのが好きなんですけど、擬音がユニークで気持ちいいんですよね。閉じる、ひらく、に関しては作品によって考え方が違ってくるんですが、その作品にとって良いバランスを見つけたいと思っています。
閉じる/ひらくの基準が通常と大きく異なると、校正の方も大変ですもんね。ただ、そこにこそ小原さんの個性が表れているような気もします。
例えば「1人」と「ひとり」では印象も、頭のなかで再生されるリズムも変わってくるので、自分にとっては大切なことですね。
そのエッセイ自体が欲していること
もう一つ、個人的には『これが生活なのかしらん』に出てくる人物の口調も気になりました。例えば、恋人に回転寿司に行こうと誘われて「そうしましょう、そうしましょう」と私はこたえたという記述がありましたが、場面自体は完全な日常風景なのに、まるで童話だったりおとぎ話を読んでいるような感覚を覚えて。本当にこんな浮世離れした言葉遣いで話していたのか、それとも、あえてのアレンジなのかは伺いたかったんです。
確かに、自分のエッセイの中で「まじか!」とか「それヤバいね」とかは絶対使わないですね。もちろん、現実にはそういう言葉を発するときもありますよ。でも、エッセイにするとき、そういうふうには書かないです。
回転寿司に行ったときだって、実際に口に出したのは「絶対寿司行こ〜」とかだったかもしれないけど、「そうしましょう、そうしましょう」の方が実は相手に合わせている部分があるという感じが出る気がする。
エッセイは日常を切り取るものという概念があるけれど、決して起こったことをそのまま書くわけでなく、切り取り方・編集の仕方によって印象は大きく変わるし、そこが書き手の腕の見せどころでもありますもんね。その結果『これが生活なのかしらん』の帯にもある「ゴミのような、宝石のような、不思議な日々の欠片たち。」というキャッチフレーズも生まれたわけで。
本当に話した通りの言葉を書くことよりも今、書こうとしているそのエッセイ自体が何を欲しているか?という方に興味があるんです。 こういう思い出をこういうふうにエッセイにしようと考えて書いてみるとします。すると、むしろ自分が思い描いてた通りに書いた結果すごくつまらなくなってしまったり、自分の気持ちを綴っていくうちに「あ、 この方向性じゃないんだな」って気付くこともあって。
(手にした水のペットボトルを指して)例えば、ここに入っている水のことを書き始めたけれど、なんだかしっくりこなくて、実は飲んだあとにペットボトルの口が濡れて毎回拭かなきゃいけないってことの方を書いてほしかったんだ!とか。そういったそのエッセイ自体が欲していること、必要としている部分を書くことの方が大事な気がします。
自分自身が生み出したものなのに、だんだん考えてもいなかった方向に一人歩きしていくというのは“クリエイターあるある”ではありますね。そもそもエッセイを書き始めるときって、何をとっかかりに切り取っていきますか?
依頼の段階でテーマがあることもありますし、なかったとしても例えば「家族」とか、大雑把なテーマを最初に決めることが多いかもしれないです。私のエッセイは全部“思い出”がベースなんですけど、思い出って音楽とか匂い、食べ物とかに紐づいているので、そのへんを歩いて散歩したり、音楽を聞いたり、喫茶店に寄ってコーヒー飲んだりする中で記憶から引き出していって。例えば「家族」だったら、ガストに入って「これお母さん好きだったな」とか。
小原さんの文章って感性の鋭さを強く感じるので、それこそ10分ぐらいでブワッと完成形が書きあがるようなイメージもあったんですが、じゃあ、結構推敲もします?
一気に書き上げる時もありますけど、基本的にはよくよく推敲します。構成も、表現も。
そう伺うと、正直少し安心します。「思春期とは稲妻である」とか「軽薄さがぼろぼろこぼれてゆくだけなのである」だとか、思考の余白のある形容が秀逸すぎて、ダウ90000の蓮見翔さんが“嫉妬したクリエイター”として小原さんを挙げられていたのも納得でしたから。
蓮見さんが名前をあげてくださったとこに関しては、もうほんとうに、恐れ多いです。嘘だと思ってます。でも、嘘だとしてもうれしいです。
弱みを書くことについて
先ほど「チームワークとなると緊張してしまう」とのお話がありましたが、『これが生活なのかしらん』は、基本的に他者との同居生活について書かれていますよね。なので、コミュニケーション能力は高い方のように感じていたのですが。
いや、コミュニケーションはとても苦手です。ただ、苦手だけどやってみたいっていう気持ちはある。
例えば、友達と一緒に住んでみる経験というものをしてみたいとか、そういう経験に対する好奇心みたいなものは自覚していて。それで、やってみたら感動が生まれるときもあるし、やっぱり最悪だった!という経験もたくさんある中での一瞬が、この本には収められているんですよね。
だから、ときどき「なんでもない日常」と言ってもらうんですけど、自分にとっては全部大事件なんです。自分にとっては普通の人生の中で、うれしかったり、寂しかったり、山や谷になったところを掬って書いているので、逆に「大きな事件を書いて」って言われても、何を書けばいいのかわからない。
それこそ“恋愛”の出番じゃないですか? 『これが生活なのかしらん』の終盤には「だって、恋って反射でしょう。」という強烈なフレーズがあって、それまでの穏やかな空気感から一転、激情を叩きつけるような勢いで書かれていますよね。どれだけ経験を繰り返しても、どんな処世術や価値観も何の役にも立たず、自分をコントロールできないのが恋愛だと。
恋愛が自分の弱みの一つであるのは自覚しています。その他の物事と同じように扱えているか?と言われると、なかなか扱えてない。だけど、笑ってもらえるようなところだけを書いて自分の弱みや気持ち悪さを見せないのは、ズルいかもしれない。だから、「恋って反射でしょう。」というのも、かなり好き嫌いが分かれるだろうなと思いながらも書きました。書きたかったですしね。
「恋は反射」と言い切れる感受性こそが、小原さんの文章を輝かせる源にもなっているんですから、そこは偽らなくて正解ですよ。では、読者からの声で逆に嬉しかったものは?
「面白かった!」と言って貰えると、すごく嬉しいですね。私も好きな本を読み終えると「ああ、面白かった!」って思うので。書かれているのと同じ経験がある人なら別の感情も生まれるだろうけど、そうでなければ「面白かった!」が残ってくれればいい。
個人的に、読んでいて負荷がかからないことは、小原さんの作品の大きな利点だと思います。
ありがとうございます。元気のないときも読めるものにはなっていると思うから、そこはいいところかな。
ものすごく気合を入れて読み始める必要もなく、少し読んで続きはまた明日でもいいし、飛ばし読みしてもいい。
うん、そうですね。だから人それぞれ好きに読んで、好きに考えてくれたら嬉しいです。
撮影/中野賢太(@_kentanakano)