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人との関わりから、広がっていく視野が成長の証。同時通訳者・田中慶子『言葉にすれば願いは叶う』インタビュー

人との関わりから、広がっていく視野が成長の証。同時通訳者・田中慶子『言葉にすれば願いは叶う』インタビュー

CNNなどでキャリアを積み、日本トップクラスの同時通訳者として知られる田中慶子さんが、3冊目の著書『言葉にすれば願いは叶う』を出版されました。ご自身が「心の支えにしている」という英語フレーズを集めた本書は、単にフレーズの意味を説明するだけでなく、その言葉を受け取ったエピソードを綴ることで、人との関わりの重要性を紐解いていくエッセイ集。

「流れに逆らうと上手くいかない。だから私の座右の銘は“行き当たりばっちり”」と語る田中さんの波瀾万丈すぎる人生、そして「人の話を聞くのが好き」という思いから始まったコーチングとの出会いについてうかがいました。

profile
田中慶子(たなかけいこ)
愛知県出身。高校時代は不登校を経験。アメリカのマウント・ホリヨーク大学卒業。通信社やNPOなどで勤務の後、フリーランスの同時通訳者に。ダライ・ラマ、テイラー・スウィフト、ビル・ゲイツ、デビッド・ベッカムなどの通訳を経験。
2010年コロンビア大学にてコーチングの資格を取得し、通訳の経験をもとにコミュニケーションアドバイスをするコーチングの分野にも活動を広げる。著書に『不登校の女子高生が日本トップクラスの同時通訳者になれた理由』(KADOKAWA)『新しい英語力の教室 同時通訳者が教える本当に使える英語術』(インプレス)がある。 Voicyパーソナリティとしても活躍中。
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https://voicy.jp/channel/1622/130698

世界に触れて感じた、“学び”の必要性

田中慶子

同時通訳者としてご活躍と聞くと、学生時代から英語の勉強がお好きだったのでは?と思ってしまうんですが、いかがだったんでしょう?

もう、全然。それどころか団体行動が苦手すぎて、高校時代は不登校でした。いわゆる同調圧力というものに幼いころから窮屈さを感じていたんですが、たまたま入ったのが新設の進学校で、これから学校のブランドを作っていくんだ!という気概に溢れすぎていたんですよ。おかげで校則だったり、すごく締めつけが厳しくて、もう、無理です!ってなってしまったんです。

もちろん適応能力の高い人は、なんとか抜け道を探したり、校則守っている振りをしてやり過ごすんでしょうけど、私は本当に不器用だったんですよ。卒業だけはギリギリできたものの、本当は出席日数が足りなかったんじゃないかって疑ってますし、今でも実は卒業できてなかった……っていう夢を見ますね。

では、高校を卒業しても大学には行かず、就職もせず?

はい。今でいうニートの状態ですよね。とりあえず親には、普通なら大学を卒業する22歳までは好きなことをさせてくださいと頼んで、半年間アメリカに語学留学をしたり、帰国してからは劇団に研究生として入ってみたり。そのあと、海外のNPOのプログラムに参加したんです。

そこで1年かけて世界の都市を60以上回ったんですけど、ホームステイやボランティア活動でいろんなものを見るうちに、自分はもっと教育されないとダメだなと実感したんです。このままでは、何か世の中に役立てるような人間にはなれない。ちゃんと学ばなきゃダメだって痛感したんですね。

ただ、その1年間のプログラムが終わるときがちょうど22歳だったので、もう親との約束の期限が来てるわけですよ。なので、まずは帰国して実家に戻って、昼間働きながら夜間の大学に行こうかななどと考えていたら、プログラムでお世話になったホストファミリーに「だったら、ここに住んでアメリカで大学に行けばいいじゃない」って言われたんです。

そんな簡単に! 日本人がアメリカに留学するって相当大変ですよ。

それが当時は世間知らずで、留学に関する知識もないから「大丈夫、できるわよ」って言われて信じちゃったんです。一番のネックだった金銭面も「奨学金があるから大丈夫」って言われて、でも、フタを開けてみたら給付だけじゃなく、貸与型の奨学金も必要でしたからね。後者は返すのも大変でしたし、そのへんの知識があったら、留学なんて踏み出せなかったかもしれない。

しかも、大学だと信じて入ったところが、実は高校だったんですよ(笑)。入学までにさんざん書類も書いてるのに、なんで気づかなかったんだ?と思うんですけど、本当に英語がわかってなかったんですよね。だけど1年間、地元の高校生と一緒に英語“で”学ぶということをしたのが、結果的にはすごく良かったんです。

それまで英語で読み書きなんてしたことなかったのに、例えばリンカーンの記事を読んできてみんなの前で発表するとか、日本の高校とはまったく違う教育を受けられて、すごく楽しかった。もちろん英語も必死で勉強して、なんとか英語力もついてきた1年後に、今度は本当に大学に入ったんです。

それがプロフィールにも書かれている、マウント・ホリヨーク大学ですよね。

いえ、最初はニューハンプシャー州にあるニューイングランドカレッジっていう、現地に住んでる人も知らないくらい小さな大学に進学したんです。まだ英語力もそんなになく、TOEFLの点数も取れない状態で奨学金をもらえる学校が、その大学だけだったんですよね。

だけど日々英語で暮らして、英語力がどんどん上がっていくうちに、講義の内容がなんだか物足りなくなってきちゃったんですよ。それで3年次から、合格できて奨学金をもらえるという条件を唯一満たしたマウント・ホリヨーク大学に転校したんです。アメリカのリベラルアーツカレッジって3年生から専攻を決めるんですけど、私は「インターナショナルリレーションズ」っていう国際関係論を選んで、それで卒業しました。

日本での逆カルチャーショックからNPOへ

田中慶子

大学卒業後は、いったん日本の企業に就職されたとか。

それについては、その後かなり長いこと後悔しましたね。語学留学のときから考えると、全部で7年近くアメリカにいたので、家族にも「今、日本に帰ってきても適応できないから、そのままアメリカにいなさい」って言われてたんですよ。だけど、不登校だった私が今は日本でもちゃんとやっていけることを証明したい!っていう無駄な向上心が湧いてしまって、日本の衛星放送の会社に就職したんです。そしたら、もう、逆カルチャーショックがすごかった(笑)。

マウント・ホリヨーク大学ってアメリカで最初の女子大だから、在学中は女性であろうと何がしかの者になれ!と、自立と社会貢献を徹底的に叩き込まれていたんですね。メディアの仕事がしたくて入社して、しかも女性チャンネルも持っている衛星放送だったのに、男性は企画に携われるけど女性はデータの打ち込み……みたいな感じだったんです。

会議になるとオジさんたちが「いや、女性が求めてるのはこういうものですから」とかなんとか、わかったふうな口を利いてて「違う…」と思いながらも、そこで口を出すとまた煙たがられる。今からすると本当に考えられない状況でしたね。

我慢できずに転職した外資系企業もかなりのブラック企業で、毎日「なんで日本に帰ってきちゃったんだろう?」って後悔してました。アメリカに戻ろうにも就労ビザがないから働けないし、働いてないからビザがもらえないって、もう八方塞がりだったんですよね。

90年代の日本なんて、まだまだ男女格差がありましたからね。そこから、どう状況を打開していったんでしょう?

偶然にも、そのころ自分が過去に参加していたNPOが日本支社を作ることになって、お声がかかったんです。でも、最初は断っていたんですよ。私は「日本の企業でも、ちゃんと会社員ができる」ことを証明したかったので、海外のNPOなんて問題外だったんですね。だけど「本社から偉い人が来るから、とりあえず会ってみて」と言われて、ホテルオークラのラウンジでアメリカ人の若い女性幹部とお会いしたら、意気投合しちゃったんです。

「世界って変えられるよね」とか「私も海外に行って人生が変わったから、そういう子が増えれば日本も変わるよね」とかって話で、すごく盛り上がってしまって。そしたら翌日に「面接通りました」と電話がかかってきて、いや、面接なんて受けたつもりない!と思いつつ、呼ばれてオフィスに行ってみたら、もう私の名刺とデスクが用意されてたんですよ! あ、これはハメられたな。ここで働くしかないなと、そこで腹を括りました。

考えてみれば「世界は変えられるよね」なんていう青臭い話を、私、日本に帰ってきてから全然してなかったんです。毎日わけのわからない作法を押しつけられたり、上司に質問して怒られたり。アメリカでは、相手が言ったことを「つまりはこういうことですね」って自分の言葉で言い換えることで、私は理解しましたってことを確認していたのに、日本でそれをやると「つべこべ言わずにやればいい!」って怒られて、もう、意味がわからなくて。それでも怒られるというのは何か悪いことをしたんだろうなって自己肯定感は下がるし、理不尽にしか思えないことばかりの日々をサバイブしていくだけで必死だったので、久しぶりに青臭い話をできたのが、すごく嬉しかったんです。

そんなわけで始めたNPOの仕事はすごく楽しかったんですけど、結局2、3年後に財政破綻したんですね。ただ、それも何かどうしようもない理由があったというより、結局は上層部の判断で決められた財政破綻だったので、そこで「もう組織で働くのは絶対やめよう」と決めたんです。自分が一生懸命やっていることを、自分とは無関係の誰かの決定で失うという経験は、もう二度としたくなかったから。

好きな仕事を失ったことは、きっと大きなショックでしたよね。

好きなぶん、絶対どこかで身体を壊すような働き方をしていたから、今となっては逆に失って良かったとも言えますけどね。ただ、当時は「これが全部夢であって欲しい」と願い続けながらも、朝起きると現実だと気づいてまた落ち込んだり。

なんでもいいからできることをやろうと、お掃除とか、朝から晩までジブリのDVDを観るとか、そんな小さなことから始めて、少しずつできることが増えてきたときに、「人生何が起こるかわからないから、やりたいことは全部やってしまえ!」という思考になったんです。それで初めてエステに行ってみたり、アラスカにオーロラを見に行ってみたり、いろいろ挑戦した中のひとつが、通訳学校に通うことだったんですね。

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