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エンパワメントとは「内なる力」に気づいてもらうこと ― 安達茉莉子『私の生活改善運動』インタビュー

FREENANCE 安達茉莉子

「出版不況」が叫ばれて久しい昨今ですが、少部数の冊子を自主製作して配布・販売するインディペンデントなリトルプレスが盛況を呈しています。デザインフェスタ文学フリマTOKYO ZINESTER GATHERINGなどイベントも多く、取り扱う書店も増えており、MOUNT ZINEUtrechtといった専門店もあります。

安達茉莉子さんは2015年から創作活動を始め、イラストと言葉による繊細かつユニークな表現で多くのファンを持つ作家。これまでリトルプレスのスタイルで何冊もの作品を出していて、最新エッセイ集『私の生活改善運動 — THIS IS MY LIFE』シリーズはvol. 4を数えます。

安達さんが生活と創作の拠点としている東横線妙蓮寺駅近くの「本屋・生活綴方」にお邪魔し、お店の奥の小上がりでこたつ(初秋なので布団は外してあります)を囲んで、これまでの半生のことから本作りに込めた思いまで、あれこれお聞きしました。

profile
安達茉莉子(あだち まりこ)
作家。大分県日田市出身。東京外国語大学英語専攻卒業、サセックス大学開発学研究所開発学修士課程修了。政府機関での勤務、限界集落での生活、留学など様々な組織や場所での経験を経て、言葉と絵による作品発表を続けている。著書に『消えそうな光を抱えて歩き続ける人へ』(ビーナイス)、『何か大切なものをなくしてそして立ち上がった頃の人へ』(MARIOBOOKS)ほか。
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「 書く(描く)ことが好き 」という気づき

ご出身は大分県の日田市なんですね。

中心部から30分車に乗ったようなド田舎で育ちました。友達が遊びにきても「本読んでるから」と言って断るみたいな(笑)、インドア派の子どもでした。

優等生だった?

勉強は好きでした。地元の進学校に通ってたんですけど、周囲の期待を……いま思うと特に誰からも直接言われたわけじゃないんですけど、勝手に想像して背負い込んでしまうようなところがあって、もっと「上」を目指さなきゃいけない、何かしなきゃいけないと思いつつも、何をやればいいのかわからなくて焦ってました。地元でけっこう寂しかったこともあって、東京に行けばわかり合える人がいるかもしれないと思って、東京の大学に進んだんです。

最初の転機が訪れたのが大学時代だったそうですね。

はい。東京に来てもやっぱり苦しくて、とにかく海外に出たいと思って、3年生のときに交換留学で1年間オーストラリアに行ったんですけど、そこであった人たちはみんな目的があって来ていて、やりたいことのない自分を省みて落ち込みました。そんなときに大失恋をして、ニュージーランドをひとり旅したんですけど、本当につらかったのは、「自分には何もない」と思ったことでした。でも、ふと「わたしは書く(描く)ことだけは本当に好きだ」って気づいたんです。

「じゃあ作家になればいいんだ」と思い立って、それから世界の見え方が変わりました。無駄なことは何もない、すべてがいつか役に立つと思って、それまでは国際政治とか国際関係とか、つぶしが利きそうな授業を選択してたんですけど、全部捨てて、哲学とか文学とか言語学とか、本当に好きな授業だけをとるようになりました。

周囲の期待に応えようとする優等生路線を降り始めたんですね。卒業後に防衛省に勤めたそうですが、正反対のお堅い職場を経験しておこうと?

それも紆余曲折あったんですが、自分の考えとは真逆のところに行ってみるのも勉強になるかもしれないと思って飛び込んでみた感じです。やめたきっかけは東日本大震災で、自分の生き方を強く考えさせられたんです。そろそろ一歩前に進まなきゃと思って、退職してイギリスの大学院に行きました。

自分の内側にこそパワーがある

どんなことを学びましたか?

開発学です。防衛省のときにネパール勤務を経験して、国際機関の働きを見たんですよね。地域の人の暮らしに長期的に関わる仕事に憧れて、国連職員を目指したんです。ところが、開発学では発展途上国の貧困削減や生計向上に取り組んでるんだろうと思ってたら、実はどこの社会にも当てはまることをやってたんですよ。

とりわけ衝撃を受けたのはエンパワメントの授業でした。エンパワメントっていうと普通、外から支援者がやって来て現地の人たちにパワーを与えるイメージだと思うんですけど、授業では「いちばん大事なのは、人々が自分の内側にパワーがあると気づくことだ」と言っていて。「えっ、そんなの日本も一緒じゃん!」とびっくりしたんです。

日本の女性とか、女性に限らず若い人が、本来持つべき自尊心や自己肯定感を持って生きているとはとても思えなかったし、「どうしてこんなに自信がないんだろう」とか「なんで同調圧力の中で生きていかなきゃいけないんだろう」とか、自分がずっと感じていた生きにくさにもすごくフィットしました。

エンパワメントというのは外からパワーを与えるのではなく、内なるパワーに気づいてもらうことだったんですね。

まさにそうです。「生まれ持ったパワーは誰にもある。社会通念やルールが阻害しているだけだ」っていう話を聞いて、まるで自分のことを言われてるような気持ちになったんです。そこから、いまわたしが本当にやるべきなのは書くこと、何かを作ることなんじゃないか? と思って、日本に帰ってきてすぐに書き始めました。

初めて人生と学問がバチッと……。

ハマった感じでした。その大学院はけっこう特殊で、「参加型開発」って当時は言われてましたけど、開発プロジェクトの中心は地元の人たちであるべきだという考え方なんです。地元の人といっても、その中でどんな人がどんな「権力」をもっているかという構造の分析をすごく大事にしていました。デベロップメントって日本語だと「開発」と訳されますけど、むしろ「発展」なんですよね。住民の内発的な発展をいかに阻害しないか。“Do no harm than good”っていって、よかれと思ってする働きかけの中に暴力性がないかとか、何か見えてないことはないかとか、自分のネガティブな面に気づき反省することを常に促してました。

日常生活にもバッチリ当てはめられますね。

そうなんですよ。わたしが苦しかった理由って、周囲のよかれと思っての発言をいちいち真に受けて、自分で選ぶことができなかったからなんですよね。いまなら取捨選択して聞き流すこともできますけど、若いときは人が言ってくれたことを聞くのがよい子だと思ってました。その結果、ニュージーランドを傷心旅行する羽目になったんですけど(笑)。大学院では自分ひとりじゃなくて、いわゆる発展途上国から来て自分の社会をよくしたいと思ってたクラスメイトたちもいたので、目標を共有して互いに切磋琢磨していくっていう関係性を生まれて初めて得たのも、すごくうれしかったです。

その留学はめちゃくちゃ大きい経験でしたね。

大きかったです! 本当に。ブライトンっていう街なんですけど、アナキストもいっぱいいるようなすごくリベラルなところで、自分も人目を気にしなくなったりして、救われました。何より海に近かったのが幸せでしたし(笑)。殻を全部とって剥き身になったみたいな感覚でしたね。

留学前と後では別人みたいな。

全然別人だと思います。それまでずっと「うまくハマらないな」と思ってたことが全部きれいにいきました。まぁ、そう思ってるのは自分だけで、学生時代の友達とかには「変わんないね」って言われますけど(笑)。

「言葉と絵」という創作スタイル

で、帰国後は学んだことを生かしてJICA(国際協力機構)に転職したんですよね。

そうです。奨学金をもらってたこともあって、自分の中で消化不良というか「実際の現場を知らないのにな」という思いもあり、JICAで2年ほど働かせてもらいました。アフリカの部署にいて、基本は本部勤務なんですけど、出張でウガンダに行ったりして、現地で働いてる人たちがどんな気持ちでやってるのかとか、援助プロジェクトが実際どういうふうに展開してるのかとか、間近で見てきました。

私の生活改善運動 vol. 1』に丹波篠山の山奥に住んでいたくだりがありますが、それはいつごろの話ですか?

防衛省をやめてイギリスに行くまでの間です。丹波篠山にご縁ができて、夏から翌年の春ぐらいまで暮らしました。防衛省では内勤だったので、一般の人と直接関わる仕事をしてみたかったというのもありますし、何より田舎が気に入っちゃって。市内から40分ぐらい、地元の人も事故に遭うと脅されるようなつづら折りの山道を四駆の古いバンで通ってました。携帯も通じないし、鹿も群れで出るし、振り向いたら大きなムカデが二匹走ってたりするんですけど、叫んでも誰にも聞こえないみたいな。そこの暮らしがけっこう楽しくて、木を拾ってきて自分で火を起こす練習をしたり、囲炉裏を整えたりしてました。

その経験は「生活改善」に結びついていますね。

ついてますね。篠山の土地柄なんでしょうけど、生活の端々に伝統や洗練された文化を感じて。例えば飲みものを出すときには器の下に必ず何かを敷くとか。あと、しつらえにみんなこだわってて、季節のものを何か拾ってきて家の中に置いてたりして、「こういう世界があるんだな」って勉強になりました。それまではずっと海外に気持ちが向いてたんですけど、日本の伝統的なものの面白さに気づいた時期でしたね。

2015年にMARIOBOOKSを名乗って、本格的に創作活動を始められたんですよね。

デザインフェスタにどうしても出店したくて、JICAを退職してすぐデザフェスでした。最初は文章はなくて、主にトートバッグと紙雑貨を作って売ってたんです。単に詩集がまだできてなかっただけなんですけど、やっぱり言葉が自分にとっては大事だったので、トートバッグにも絵と言葉を一緒にあしらってました。最初は特に名乗りはしてなかったんですけど、これじゃわたしが誰なのかわかってもらえないなと思って、途中から「言葉の作家」って書くようにしたんですね。そしたら足を止めてくれる人が格段に増えて、言葉ひとつでこんなに反応が変わるんだ、って驚きました。それで吹っ切れていって、徐々にいまの「言葉と絵」というスタイルができていきました。


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