いろんな鏡で照らし合わせて感情を語る

とはいえ、誰もが感情をコントロールできないままだと社会は回らないわけで。どんなところに解決策はあるんでしょうか?
すごく難しい質問ですね。基本的に、感情って“喜怒哀楽”のように単純化して捉えられがちですけど、そういうものではないんですよ。ものすごく大きなもので、単純には捉えることがむずかしいものだからこそ、まず、自分の感情を少しでも知ることが必要で、それが細かく見えてきて初めて、今度は使えるようになってくるんです。なので、完全にはコントロールできないということを前提に、まずは知っていくことなのだと思います。自分の感情をないことにするとは逆方向です。
感情とは、喜怒哀楽の4つに簡単に切り分けられるようなものでは決してないと。
そうですね。まず、生きていくために必要なものであり、自分自身を教えてくれるもの。だから感情を動かさずに、社会の正解とされるものに合わせて“いい子”でいるだけだと、自分自身のことが分からなくなってしまうんです。
私たちはいつも正解を探しているような気がします。他人の正解を探ってそれにいつも自分を合わせていくというのは、本当に苦しいですよね。もちろん、感情を動かすと人とぶつかることもあるので、危険もありますよ。でも、ぶつかることではじめて自分の感情がわかるということがあるんです。
例えば、AIって1人の人間よりも知識はあるし、たくさん喋るじゃないですか。でも、AIは自身の欲望を持ったり、感じるということ、自分について気づくということが、今のところできないんですね。つまり、知性はAIでも持てるけれど、欲望を持ちぶつかり合うこと、自分の感情を持ち自分の感情を知ることは人間しかできません。自分の感情を知り、他人の感情を知り、それを自分と他人の居場所をつくるために役立てる、それは人間のものすごく大事な能力になっていくだろうということを『感情労働の未来』には書いています。
この本では、今のAIという鏡、SNSという鏡、あとは脳科学的な事実という鏡など、いろんな鏡を提供して、みなさんが自分たちの感情がいかに大切かに気付けるようになっているはずです。
なるほど。AIやSNSという現代の技術によって、改めて照らし出された人間の感情だったり、そのポジティブな側面を書いたということですね。
はい。自分の感情や他人の感情に敏感に気づいて、それをうまく使って、自分と他人の居心地をよくできるように動ける能力は、感情的知性と呼ばれます。
看護師さんたちに対する研究で、感情的知性の高い人は、他人のために感情を使い果して疲れ切ってしまいがちな仕事でも、その仕事を楽しみ、むしろ生きがいを感じて、離職率が低くなることが明らかになりました。おそらく感情的知性の高い人々は、他人のために自分の感情をもちろん使いはするけれども、他人からもいろいろな感情を受け取ることができるのだと思います。小さな感謝の表現に目を留めて、とても喜ぶことができたり。
相手の感情に気づいて、それを受け取ることで、自分が与えているだけの存在だという意識が減っていくんですね。同時に、こういう人たちは自分の感情にも敏感だけに、自分が苦しい時にはちゃんと気づき、自分がどうしたら楽しい気持ちになるのかをちゃんと知っていて、他人に対してだけでなく、自分に対してもいたわりの視線を向けられるのだと思います。
つまり、感情労働を楽しめる方というのは、感情に対する解像度が高いのかもしれないですね。もし、相手から何か嫌なことをされたとしても、その行動の裏にあるものまで推しはかることができれば、また感じ方も変わるでしょうし。
その嫌な行動をする背景の気持ち、人の心というものが見えているんですよね。人間、理由がわかると楽になるところがありますね。人の心が見えていれば嫌な目に遭うこと自体も減るかもしれない。
ただ、一生懸命に子育てをされていて「良かれと思ってやってるのに子どもが応えてくれない」って悩んでいた方が、この本の「自分の気持ちを大事にすることを一番忘れがちかもしれない」と書いたところを読んで、喜んでくださったんです。やっぱり自分に無理をしてる方って多くて、そういう方々が「この本を読んで励まされた」と言ってくださると嬉しいですね。
自分を大切にしないと相手も守れない

その「良かれと思って」って、大きなポイントだと思うんです。それが逆に加害の温床になることもありますし。
「良かれと思って」やってしまうんですよね。私も介護生活で、ずっと「良かれと思って」やってきたことが、母にとっては全然良くなかったとか、そんな経験ばっかりで。
だから、他人はコントロールできない存在ということを肝に銘じておかなければならないのだと思いました。特に自分の子だとか親だとか、愛着のある存在ほど、自分と同じだという前提に立ちがちで、自分の考える通りに動いてくれるはずだと期待してしまう。その期待を手放すというのが、すごく難しいんですよ。
でも、「良かれ」と思ってこちらがやったことは、ちゃんと受け取ってもらえるはずだと思い込むこと、すなわち「良かれ」に執着したままだと、「なんで受け取ってくれないの?」「この人、なんにもわかってくれない!」って本当に苦しくなってしまう。
そこで期待を手放すためには、自分の思い込みを捨てて、ひたすら現実を観察するしかないんですよね。そうすることで「あ、こういうところで母は心を動かしてるんだ」とか「これが母には嬉しいことなんだな」って、ようやく私も知っていけたんです。コントロールできるという幻想を捨てて、目の前にいる人間の中に何があるのかを観察していく。そうやって相手と自分を切り離して、初めて“人の心を理解する”ということが始まるんです。
相手と自分を同一化せず、距離を置いて観察するということですね。
そう。切り離して、別々の人間にならないといけない。それが難しいのが、子育て、恋愛、介護なんじゃないでしょうか。
ただ、自分に余裕のないときって、そんな相手の事情を推しはかることなんてできないじゃないですか。となると、大切なのは、まず、自分をケアすることなのかもしれませんね。
自分をケアするって真っ先にしなきゃいけないことなのに、優しい人ほどそれを一番に忘れてしまうんですね。でも本当は自分を大切にしないと、相手も守れません。
私、「感情のお弁当箱理論」という持論があって。例えば介護だったり子育てをしてる人の場合、その“他者の面倒を見る”という行為が、お弁当箱の半分くらいを占めているご飯だとしましょう。このご飯は毎日食べなきゃいけないものなんだけれど、ご飯だけだと辛いじゃないですか。
いくら白飯が好きだったとしても、それしか食べられなかったら、辛いですよね。他者の面倒を見ることだけで毎日が終わっていったら、辛くて、子どもに怒ったり、親に八つ当たりしてしまうことになっていくかもしれない。じゃあ、これをいかに美味しく食べるか?ということを考えると、味の濃いハンバーグを入れるとか、酸味のあるトマトを入れるとか、別のおかずを入れるってことになってくるんですよ。
仕事にせよ介護や子育てにせよ、毎日やらなきゃいけないことは、やらなきゃいけない。でも、それを楽しくやるために、例えば映画を見たり、美術館に行ったり、といった“おかず”を用意することはできますよね。やらなければならないことが、苦しくならないように、お弁当箱を想定し、自分の生活に必要なものを考えていくことが重要で、それが自分のことを知っていくプロセスにもなると思うんです。なんでも一人でできるわけではなく、人やものに頼らなければならない自分を知る。
推し活について肯定的な意見を発信されているのも、そういった思考からなんでしょうか? もしかして恩蔵さんご自身も、何か推し活をされていたりとか。
そこは、すごく言い辛いところで。私、好きなものや熱中していることはいっぱいあるんですけど、“推し活”という感じではないんですね。“推し”という感覚がまだ掴みきれていないので、当事者ではないし、正直まだまだ調査が足りない状態ではあるんです。ただ、今、自分の生活に元気をもらえるとか、自分の感情をのせて応援するとか、多くの人々が一番感情を動かしているのが“推し”であり、『感情労働の未来』でも触れることになったんです。
私の周りで”推し活”をしている人を観察していると、ちゃんと“受け取っている”んですよね。推すことで自分の生活に持ち帰るものがあって、活き活きと生活している。それを見たとき、私は「感情の使い方について、この人たちから学ぶ必要がある」と思ったんですよ。なんだか、そこに新しい形での感情の使い方を感じるんです。
“新しい形での感情の使い方”とは、具体的に言うと?
コロナ禍でオンラインでいろんなことができるようになって、私たちの感情の使い方も変わったと思うんです。移動時間が無駄だとか、ものすごく効率が重視されるようになりました。身体は家にいたまま、遠くの人とミーティングをする。実はこれってすごく疲れることなんですよ。身体が同じ場所にあれば、簡単に伝わるニュアンスが、伝わらなくて、オンラインで言葉や表情で大げさに表現しなくてはならなかったりする。自分の身体や、感情が置き去りにされて、効率が重視されて、わかりやすいものばかりがもとめられる。
そういった現代の新しい文脈に適応して、自分の感情の使い方を開花させたのが、推し活をしている人たちのような気がするんです。自分の好きなものを持つことで、自分をしっかり持って、しっかり生きているように見えるんですよね。
さっきの感情のお弁当箱理論で言うと、みなさん推し活を“おかず”にして、美味しく白いご飯を食べているんです。もちろん、これでお弁当箱の中身が全部おかずになっちゃって、推しに依存したり、推しに搾取されてしまったら問題ですけど、私の周りの人たちはなんだか、ちゃんと“自分”を生きているように見えます。なので私も疑似体験をしてみようと、実は母のアクスタを作ってみたりもしました(笑)。母が亡くなった直後に、1回そのチビ母を海外に連れて行ったこともありますね。
そういった推し活についても含め、今、注目しているテーマ、次に書きたいテーマってありますか?
それが、今はちょっと出涸らしになっていて、正直まだ具体的なテーマは見えていないんですね。ただ、重度の認知症の人の研究には、すごく興味があります。重度と呼ばれる人たちに残っている能力がどのくらい豊かなものなのか、それはエネルギーを貯めて、また書きたいなと考えています。
言葉を紡いでいくことで、問題が解けることがある

ちなみに、最初に「本を書きながら自分の切実な問題を考えるのが一番好き」とおっしゃっていましたが、それはどういった理由から?
私、実は小学生のときは絵描きになりたかったんです。もう、それしか考えてなかったんですけど、中学受験で美術学校を受験して落ちてしまって、高校で物理学の面白さに目覚めて科学を志しました。脳科学に出合ったのは大学院に入る時です。そのころ人間関係でとても悩んでいて、生きづらさMAXだったときに、今も師事している先生が「お前にはこれだ」って渡してくれたのが、『生きて死ぬ私』という本だったんです。
私にとって最も切実な問題である“生きて死んでいく”ということについて書かれているんですけど、こんな人生の問題を科学することができるんだとすごく驚きました。科学って、数式を解くことみたいにイメージするところがあると思うんですが、言葉を紡いでいくことで、問題が解けることがあるんだ、というか。
私にとっては言葉で書く世界ってすごく広くて、絵で描くものとも違っていて、自分にとっての切実な問題を科学的に考え、芸術にもなる形で、書くことができる。そこから文章をやりたい、本を書きたいって考えるようになったんです。
言葉に対して、1つの芸術であるという側面を見出しているんですね。
そうです。だから、論文を書くこととも少し違っていて、自分が生きて死んでいく中で直面する、一番大事な問題について考えていけるのが本なんです。私は言葉という表現手段が一番好きなんだと思います。
言葉って奥が深いですもんね。テクニカルに書くことは語彙や場数があればある程度できますけど、心から溢れた言葉を見つけるのって本当に難しい。
そうなんです。だから、言葉と感情の連結だったり、知性と感情の関係性みたいなところに、すごく興味があるんでしょうね。肉体を持って生きて、知性も使っていくという体験は、AIにはできないことでしょうから。
撮影/中野賢太(@_kentanakano)
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