組織開発の専門家として活動され、多数の企業のコンサルティングを手がけてこられた勅使川原真衣さん。がん闘病をきっかけに、人が人を評価して、序列をつける“能力主義”に疑問を呈し、2022年に『「能力」の生きづらさをほぐす』、今年6月に『働くということ 「能力主義」を超えて』の2冊を上梓されました。
さらに、最新刊の『職場で傷つく~リーダーのための「傷つき」から始める組織開発』は、タイトルの通り“職場 = 会社”という中で、これまで無きものとされてきた“傷つき”に着目した内容です。固定した“職場”を持たないフリーランスこそ、超・能力主義にさらされていると語る勅使川原さん。そこで“生きづらさ”を回避し、自分を守りながら働くためのヒントをうかがいました。
1982年、横浜生まれ。東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。外資コンサルティングファーム勤務を経て独立。2017年に組織開発を専門とする、おのみず株式会社を設立し、企業はもちろん、病院、学校などの組織開発を支援する。二児の母。2020年から乳がん闘病中。
著書に『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)、『働くということ 「能力主義」を超えて』(集英社)、『職場で傷つく ―リーダーのための「傷つき」から始める組織開発』(大和書房)がある。朝日新聞デジタル言論サイト『Re:Ron』ほか、論壇誌『Voice』(PHP研究所)、教育専門誌『教職研修』(教育開発研究所)で連載中。
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自分の中にもあった「弱者嫌悪」

『職場で傷つく』を読ませていただいて、まず驚いたのが読みやすさだったんです。まるで面と向かって会話をしているような文体でスイスイと読めて、この読みやすさというのは執筆の際、相当意識されたのではないのかなと。
ありがとうございます。組織論とか社会学とかアカデミックなものってすごく面白いはずなのに、一般市民としては少し読みにくいなとずっと思っていたんです。なので、普段は本を読まないけれど、タイトルが気になって手に取ってみた人が読めるものにしたい、というのはありました。変に高尚なムードを出して、伝わる範囲を自ら限定するのは、すごく特権的で白々しい行為だなと感じるので。
いくら意義あることを言っていても、伝わらないと意味がないですからね。裏を返すと、ここに書かれている内容を伝えたい人々を、これまでにたくさんご覧になってきたということではありません?
そうですね。「あなたにはこれが足りない」とか「自分の機嫌の取り方」だとか、 さも人を救うかのような言説って、よく“新しい時代の新しい能力”とかいろんな呼ばれ方で生まれてくるじゃないですか。でも、例えば私が物心ついてから約30年あったとして、それで実際に救われた人って30年間見ていても1人もいない気がするんです。
「あなたに足りないのはこれだ!」とかっていう言説を信じて、『××力』とか『世界のエリートはこうしている』とかって本を読んでも、それで救われた人なんて見たことない。むしろ、強者の側の優位性をより強固にしているだけなんじゃないか、強者の立場で他人事を論じているだけで、ただの弱者嫌悪の裏返しなんじゃないかっていう感覚があるんです。
弱者嫌悪とは?
私、38歳のときに進行性の乳がんになってしまって、見つかった時点ですでにステージ3だったんです。それで身体的にできないことが増えて「弱者」と呼ばれざるを得ない状況になったときに、自分の中にある弱者嫌悪を初めて認識したんですね。勉強は割とできたおかげで、学歴社会の中では優位性を持っていた自分が、病に臥して仕事的に「弱者」となったときに、それに対して拒絶反応を持っていることに気づいてしまったんです。

結局は「弱者をケアしよう」と言いつつ、弱者を弱者の側に押しとどめて、高みの見物をしていただけだったんですよね。じゃあ、その弱者嫌悪に気づいたという体験そのものを、当時まだ幼かった子供たちに私が死んだあとも残そうと考えて書いたのが、1作目の『「能力」の生きづらさをほぐす』なんです。
それで『「能力」の生きづらさをほぐす』は、成長したお子さんたちの前に勅使川原さんが幽霊となって現れるという会話形式になっているんですね。
はい。だから、完全に遺書のつもりだったんですよ。それが、なぜか元気になっちゃって(笑)。きっと塞がれていた口を開いたというのが、ある意味セラピーになった気がするんです。みんな「能力が大切」って信じてるけど、それって幻想じゃない?って書けて、予想外に大きな反響ももらえたのが、良かったんじゃないかと。
これは、かくいう私も他人の基準でずっと生きてきたからで。能力主義だったり、それを良しとする社会を批判しつつ、私自身が思いっきり能力主義だったんですよね。
わかります。だいたい「能力主義は良くない」って主張している人たちって、能力主義における強者じゃないですか。そこで強者になれないと、そもそも発言する場さえ与えられない。
そのパラドックスは本当にあります。まずは、思考の言語化という「能力」を持っている人間でないと発信ができない。でも、それは遡ってどうにかできることではないので、とりあえずは強者であっても、気づいた人間として特権性を自覚しながら発信していくことが、これからの残された使命かなと思っています。
世の中、器用に動けたり上手く立ち回れる人ばかりじゃない。そのことは組織開発の仕事をしていて身に沁みていたので、本書でも現場のフィールドワークを記録したフィールドノートを、そのまま本にするというデザインにこだわったんです。
代弁する……と言うとすごく厚かましいんですけど、声をあげられない人の声を拾うんじゃなくて、こちらから中に入って「何が起きているのか教えてください」って拾いに行ったんですね。だって「声を聞かせてください」って言っても、向こうもそんな暇じゃないし、声をあげる気力も残ってないですよ!
決して個人だけの問題ではない

では、そこで勅使川原さんが一番伝えたかったことって何でしょう?
初作から継続的に訴え続けているのは、一元的な正しさを持つことの危うさですね。その指標が時代と状況によって能力だったり、自分の機嫌を取る力だったり、いろんな形に化けるんですけど、何であれ、正義は1つと考えている限りは同じ穴のムジナになってしまう。おかげで、その指標を満たせずに職場で傷つけられて「自分は傷ついたんだ」と気づけたとしても、素直に「傷つけられた」と声をあげることさえできなくなってしまうんです。能力主義がはびこる社会だと、求められるラインに達しなかった自分が悪いんだって、傷ついた本人も自分を責めてしまうんですよ。
何らかの指標に従って、人に縦方向の序列をつけてきたのが能力主義ですけど、人間って本来は水平なんです。多様で多元、それがバリエーションであり、ダイバーシティなんですね。ただ、ついつい一元的な軸に則って、強い/弱い、優れている/劣っているという序列をつけてしまうんです。
その代表例が学歴なわけですが、なぜ、人間は序列をつけてしまうんでしょうね。
この前、経営学の先生と対談したときは、やっぱり人間って、あんまりたくさんあるものを認知しきれないからじゃないか?っていう話になりました。人間ってわかりやすいものが好きだから、何か「コレ!」という指標があると安心するんですよね。だからダイバーシティ&インクルージョンなんて認知的にも難しくて、能力主義に落ち着いてしまっている。「みんな違って、みんないい」が、どうしても認められないんですよ。
なるほど。自分が職場で傷つけられたとしても、何か理不尽な仕打ちをされたと捉えるより、自分の能力が足りなかったから仕方ないんだと思えたほうが納得できますもんね。
そうなんです。わかりやすいもの、納得感のあるものを求めてしまうから、会社で傷つけられても、自分の能力の問題だと思い込んでしまう。でも、それで家に帰ってから勉強したりするくらいなら、まず「あー、傷ついたな私」って認めたほうが、明日への活力になるんですよね。

それで会社を辞めるもよし、配置転換を願い出るもよし、割り切って職業人格を演じてもよし。そこは個人の判断ですけど、いずれにせよ、職場で傷ついてしまうのは組み合わせが悪いのであって、個人だけの問題ではないんですよ。
そこは本書に出てくるレゴの例が、非常にわかりやすかったです。どれだけ巨大で精巧な作品だったとしても、それぞれのパーツは形も色もバラバラじゃないかという。
そう。小さなパーツ1つひとつに自己責任なんてない。すべては組み合わせる側が考えなきゃいけないことで、それって組織でも同じことなんですよ。なのに最近は1人ひとり、レゴでいえばパーツの1つひとつに万能であることを求める傾向があって、それが果たせないと個人を責めたりする。
でも、組織が求める性質のすべてを1人の人間が受け持つなんて無理じゃないですか? メンバー全員が集まったときに、なんとなく網羅できていればいいわけで、社交的な人もいれば、黙々と作業するのが得意な人もいるし、アクセルっぽい人も必要なら、ブレーキもなきゃ止まれない。そこに良し悪しはないんですよね。
そういった論理を企業の上層部に説かれるのが勅使川原さんのお仕事だと思うのですが、経営者の方々からはどんな反応が返ってきてます?
とにかくウチは優秀な人が欲しいんです!っていう、1人の人間にすべてを求めるタイプの経営者は、まず、私のところに来ないです(苦笑)。なので、接点を持てるのは、強者の論理でやってきたものの上手くいかないことに気づいて、自分の代で何とかしたいという意志を持っている方だけですね。万能で優れた特性だけではどうにもならないという危機感のある方が、私を呼んでくださる。
でも、それも良い悪いではなくて、それこそ人の多い大企業なら、万能な人材を求めてもいい場面もあると思うんですよ。ただ、中小零細企業の場合は人を選ぶことが難しいので、いい加減“優れた人幻想”はやめた方がいいんじゃないかと。そう言うと「いや、本当そうなんです」って返ってくるので、経営上の困難がある会社との相性のほうが良いですね。
つまり人員は同じでも、組み合わせや配置を変えるだけで改善される可能性があるということですね。
その通りです。あと、みなさんモデルにしているものが、ちょっとずれているんですよね。例えば、社員20人規模のデザイン会社さんが「Googleがやっていたから」という理由だけで採用試験でフェルミ推定を取り入れちゃうとか、ちょっとやめた方がいい。みんな「大きいことは良いこと」っていう意識のせいか、大企業がやっていることをそのまま取り入れようとする傾向があるけれど、規模が違うんだから上手くいくわけがないですよね。
正直に「傷ついた」って言っていい

そういったところも本書には丁寧に書かれていますから、やはり経営者にこそ読んでほしいですよね。
Xとかには「そっと上司の机の上に置いときました」とかってポストしてる方もいらっしゃいます(笑)。ただ、私が言っているのって職場の前に、実は教育の場で必要なことであって、本来は学校教育の段階で「人間は縦方向に並んでいるわけではない」というのを伝えていくべきなんですよ。
私が専攻していた教育社会学でも、職場労働の架け橋は教育と定義しているので、職場を良くすることを仕事にすればするほど、職場だけではどうにもならないことがわかってくるんです。能力主義を育んだものは学校であり、さらに遡って社会におけるコミュニティの最終単位を考えると、夫婦だとか家庭というところに行き着くんですよね。
そもそも婚活アプリだってスペックごとに選び選ばれる、あれも相当傷つくシステムじゃないですか。能力主義のもと優劣が生まれ、それに従って選び、選ばれるということに、もう少し社会が懐疑的であってもいいんじゃないかと思うんです。それは『職場で傷つく』の前に『働くということ』で書いていて、だから実は全部が地続きになっているんですよ。まぁ、学校では整列するのも背の順じゃなく出席番号順だったり、今はいろいろ変わってきてはいますけど。
ええ。良い方向には向かっているなとは感じます。
本来は成績表とか必ずしも必須ではないと思っています。「今学期は、先生にはこんな風に見えていました」とかってコメントさえもらえればいい。そこから家庭で「どうなの?」っていうコミュニケーションも生まれるだろうし、やっぱりコミュニケーションも無しに人に良し悪しをつけるというのが間違いなんです。
もし学力という指標で測りたいのであれば、例えば足が速いとか、歌を歌ったらメッチャ上手いとか、輝ける場所を他にもたくさん用意しないといけないですよね。
なるほど。「能力主義をやめよう」というのは、その能力を発揮させる場を摘むのではなく、指標を1つに限定しないでたくさん作るということですね。
能力主義においては、よく“自立”という言葉も使われますけど、1人で立っている人間なんていますか?という話です。みんなで持ちつ持たれつが当たり前なんだから、1人の人間にすべての能力を求めるのは無茶な話でしかない。
なのに、それを教えるべき当の学校の先生が、今、ものすごく多機能化していて、ソーシャルワーカー、スクールカウンセラー、法律家と、全部の役割を果たすことが求められている。まさに能力主義に搦めとられているんですよね。それで傷ついた先生方が『職場で傷つく』を読んでくださって、読書会を開いたり、講演会などに私を呼んでくださったりしているんです。なので、私の仕事も最近は企業が半分、あとは学校が多いですね。企業案件で食い扶持を守りながら、ボランティアで学校に入ったりしてます。
確かに、今1人に求められるタスクが一番増えているのは教師という職業かもしれません。
しかも、たまにスーパーマン的なインフルエンサー系校長みたいな方が出てこられて「俺はこうやって円滑にやってきた」とか言っちゃうんですよ! あなたはそれで輝けたかもしれないけれど、みんなができるわけじゃないし、それが悪いわけでもない。だから「できて当たり前」の風潮を作ってはいけないし、繰り返しになりますけど、傷ついたら正直に「傷ついた」って言っていいんです。
フリーランスにとっての『職場で傷つく』

ちなみにフリーランスにとっての“職場で傷つく”は、会社員とは少し異なってきます?
いや、フリーランスこそ、超過激な能力主義の中で生きているわけじゃないですか。超短期間で成果を見せないと平気で首切られるわけで、そんな強烈な能力主義の波に押しつぶされそうになっている人も、まさに“職場で傷つく”を体験しているんです。なので、それはあなたの能力だけの問題じゃない、まずは組み合わせの問題なんだと知ってほしいですね。
私にも経験がありますけど、フリーランスってアレもコレも求められて時給換算したら500円ぐらいになったりするじゃないですか。そんなの要請してくる方にも問題あるんですから、辛ければ「ノー」と言ってもいいんですよ。いや、ちょっとしんどいです、たぶん私より向いている人がいるので……って逃げちゃっていい。
いろんなステークスホルダーとの組み合わせも重要で、心地よく働ける機能的なチームが作れるのであれば、それも一案ですよね。「あの人とは安心して働ける」とか「あの人とは上手くいかない」とかってという感覚も優劣ではなく、あくまでもマッチングの問題なので、そこは自分で選んで決めていい。信頼の置ける限られた人とだけ組んでもいいし、辛いな、合わないなって思ったら離れて、もっと合う人を探したって構わない。
もちろん、より良いマッチングを果たすために「私はこういったことができる」「こういったものが好き」というわかりやすいサイン、シグナリングは必要になりますよ。それを良し悪しつけずに、お互いにキャッチし合うことが重要なんです。

ただ、中には相性が悪い相手でも仕事をせざるを得ない場合もありますよね。
もし、食い扶持のために選べない状況なのであれば、そこは割り切る必要があるかもしれませんね。ただ、何かが欠乏しているから上手くいっていないんだとか、何かを手に入れることが大事なんだという考えはやめたほうがいい。
特にフリーランスはクライアントとの相性やご縁が大きな比重を占めるので「自分のせい」ではないことも多いし、そもそも何かを手に入れたときって、必ず何かを失っているんですよ。やりたかった仕事を同業者に奪われたとして、その仕事ができていない自分が得られるものがあるし、その間に同業者が失っているものも必ずある。得たから良い、失ったから悪いという話ではなく、それが多様性なんですよね。
どうしてもSNSとかでは、いろんなものを所有している人が「すごい」と持て囃される傾向があるけれど、決してそうではない。そういったバランスというか天秤みたいなものをイメージできた方が、社会としては健全なんじゃないかと思います。
いちフリーランスとして、とても心励まされる言葉をありがとうございます。では、職場で傷つく人がいなくなるために、一番必要なことって、ズバリ何でしょう?
やっぱり「ありがとう」ですよね。本書にも書いた通り、まずは感謝を示すこと。そう言うと「いや、あいつに感謝したことなんてない」って反論する経営者の方もいるんですけど、じゃあ、あなたが勝者でいられるのは誰のおかげなんですか?と。
2021年に出た 『アダム・スミスの夕食を作っていたのは誰か?』という本が話題になったんですが、アダム・スミスって生涯独身で、身の回りの世話は一切合切お母さんがしていたらしいんです。つまり、お母さんがいなければ『国富論』も出なかった。要するに、誰かの光には必ず影があるっていうことなんですね。例えば、大谷翔平みたいな大リーガーたちには、そのケアを担当する人――おそらく夫人がいて、もし、その夫人にも光が当たっているとしたら、さらにその陰にケアを担っている人がいるはずなんですよ。言ってみれば、ケアのマトリョーシカみたいな現実がある。
なので、大きな書店さんでは「ケアと経営」とかっていう名目で、この本のフェアをしてくださったりしているんです。職場とか経営学に欠けてきたのは、やっぱりケアという観点なのかなと思いますね。

光の影には必ず最後にケアを受け持っている人がいて、裏を返すとケアをしている限り光は当たらない。だから、誰もがその必要不可欠なはずのポジションを回避しようとするんでしょうね。
それが最初に言った弱者嫌悪にもつながってくるわけで、誰もが“影”になることを認められない自分の弱さを、まずは受け入れるべきじゃないかと思うんです。これまで無かったことにしていた、その弱さを認めないと何も始まらない。強いことが良い、弱いことはダメという能力主義を信じているから、自分の中の弱さも認められず、結果として他人を傷つけてしまうんですよね。
なるほど。まずは自分の弱さを認めてはじめて、強い・弱いに優劣がないことを認識し、能力主義から脱却できるというわけですね。
人間の状況や環境って、本当に往く川の流れのごとく変わっていくじゃないですか。だから重要なのは、ある一点で切り取られた固定的な“能力”ではなく、その移り行く中での“状態”なんですよね。
なので、例えば最近流行りのMBTIとかで自分の性質だったり、どんな色や形のレゴブロックとなら組み合わせやすいのか?というのを大まかに知っておくのは、特にフリーランスには有益だと思うんです。ただ、それは組み合わせの参考に使うのが前提であって、自分をラベリングしてしまうものではない。あくまでも「自分ってこういう人間だな」を把握するためのもので、そこから「ここが足りないから埋めなきゃ」になってはいけないんです。
今は障害の社会モデルという考え方があって、何か上手くいかないことがあるとしたら、それは当人の欠落が原因なのではなく、社会の側が変わっていくべきであるという認識が出てきています。それって教育の現場には導入され始めているんですけど、職場にはまったく取り入れられていなくて、例えば私がリサーチのために職場を描いたものを探しても小説しかなかったり、もう、職場の実態が完全にブラックボックス化しているんですね。だから、仕事をするなかで傷ついたときは、臆せず「傷ついた」と言ってほしい。そして、経営者だったり強者の側には「ありがとう」を言うことから始めてほしいです。

撮影/中野賢太(@_kentanakano)