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固定観念を壊し、オルタナティブを示すことの喜び。上出遼平『ありえない仕事術 正しい“正義”の使い方』インタビュー

固定観念を壊し、オルタナティブを示すことの喜び。上出遼平『ありえない仕事術 正しい“正義”の使い方』インタビュー

Do the right thing ― 善きことをしよう、真っ当なことをしよう

上出遼平

それって何故なんでしょう? テレビ局に入って海外を飛び回るような生活をする前から、周りに振り回されず、他人に依存しない幸せを認識できていたんでしょうか?

自分のことなので客観視はあんまりできないんですけど、自分が育った家庭の影響はきっと大きいですね。親には全面的に肯定されて生きてきたというか、何をしても「お前はそれでいいんだ」と言われてきたので、僕は僕自身の物差しを疑うことが全くなかったんです。自分のアイデンティティに対して不安を覚える必要がない環境で育ったから、大人になって他人に与えられる安心を求める必要がなかった。それは僕のすごく大きなアドバンテージでしたね。

なので、こういう生き方が誰にでもできますとは残念ながら言えないけれど、いくらかは参考にしてもらえることがあるはずなんですよ。まずは今の自分の考え方や価値観に対して、疑いの目を持てれば大きな出発点になるし、死というものにどれだけ向き合えるか?というのも重要ですし。そもそもこの本を読んで、これまでとは違う生き方をしたいと思えたら、その瞬間にきっと何かしら行動も変わるはずなんです。

逆に、自分の目指す方向性や生き方が正しいことを確認したくて、こういった仕事術の本を手に取る人も多いでしょうから、そういう人には不意打ち的な内容になっているので申し訳ないんですけど、その経験こそがあなたにとって大事だと僕は勝手に信じているんです。不意打ちをされたことで「自分の進んでいる方向は幸せに通じていないかもしれない」と気づくことがあれば、それは一つのチャンスが訪れたということなのかもしれません。

もう一つ、本書で大きく取り上げられているのが「Do the right thing――善きことをしよう、真っ当なことをしよう」というテーマですよね。いわゆる社会善だったり社会への貢献というのは今、個人や組織にかかわらず強く求められていて、その代表格がSDGsなわけですが、そんな風潮を上出さんはどんな風に感じていますか?

メチャクチャ当たり前のことを言ってるなと思ってます。人を喜ばせよう、困っている人がいたら助けようというのは普通のことであって、そういった“誰かのため”の活動が企業においてはお金に変わってくというだけの話ですから、本当はSDGsなんて声高に言う必要もないんですよ。差別をなくそう、飢餓をなくそう、教育を行き渡らせよう、全て当たり前のこと。それをSDGsという言葉で主張しなきゃいけない状況になっていること自体が、非常におかしいわけですよね。「善きことをしよう」という当たり前のことができなくなっていて、どうやって善きことをしようか?と考えなければいけない状態が、もうイカレているということ。

まず、テレビ局がSDGs番組を作らなきゃいけないと思い込んでいることが問題で、本来テレビ番組は全部SDGs番組じゃなきゃいけないんですよ。「SDGs番組を作れ」と言われたら、「ウチは全部SDGsなんで」と打ち返さなきゃいけなかった。つまり、今のSDGs番組というのは、SDGsという形に則っただけの番組になっていて、それがいかに世のため人のためになっていないかというのは、誰が見てもわかるじゃないですか。

だからSDGsと「善きことをしよう」というのは全く違うんです。SDGsは「これがSDGsですよ」と言われたことをやっているだけで、本当に善きことをしようと考えたら「SDGsをやろう」にはならない。

なるほど、SDGsとして提唱された形をなぞっているだけで、その根本にあるのは「善きことをしよう」ではなく「SDGsをやって社会に認められよう」という下心だけなのかもしれない。

大前提として、全人類共通の「善」があると確信するのは危険で、その上でもちろん自分の信じる「善きこと」だけを追求するのさえ難しいし、実現できないこともあるだろうけど、まずは試みようよ、というのが僕の感覚なんです。例えば、貧困や戦争が世界からなくならないからと言って、別にどうでもいいとは当然ならない。これは本当に難しい話で……そもそも本当に格差を解消しようとしているのかといえば、そうではないんですよね。個人や組織の自己利益を追求するのが、果たして本当に善なのか?という話を敷衍(ふえん)して、日本国民全体の幸せを追求しようとすれば、いや、他の国はどうでもいいのかという話になるし。じゃあ、地球全体の幸せを考えるところまで行けるのかというと、そうはならないですよね。それを実現しようとすると、自分たちにかかる負荷が大きくなったり、先進国の今の生活が維持できなくなることが想像できるから、実際は全世界が平等になるなんて望んでいない節もある。

なので完璧に正しいことは言えないし、どこまで行っても自分の態度には薄汚さが含まれているんですが、だからと言って全部を諦めて開き直る態度が一番キモくないですか?って思うんですね。世界平和だとか世界の貧困をなくすなんて大袈裟なことは言わなくても、ただ、目に見える範囲の人を喜ばせたいとか、困っている人を助けたいとかってことが仕事になっていけば、世界も少しは良くなるはず。きっと仕事の原理原則はそれでしかなくて、長い目で見たときに「Do the right thing」こそが経済的な合理性を持つんだということを、この本では書いているんです。

自己利益の追求と「Do the right thing」は一見相反することのように見えるけれど、本来は「善きこと」で利益を得るのが、一番シンプルでベターな形なのではないかということですよね。

だから、存在しないはずの不安を引きずり出して、それを解消させるというマッチポンプで金を稼ぐことはやめた方がいい。例えば「腋毛は汚い」という広告をたくさん出して、そういった価値観を植えつけた上で、脱毛事業でお金を取るみたいなことが一番グロテスクですよね。それは不幸を作ることで商売を生み出している、いわば脅迫ですから。恐怖感や不安感を煽って、それを解消させるためにお金を払わせる商売は、すべからく悪徳商法だと思ってます。

ただ、人間の欲望自体は全く否定すべきものじゃない。欲望はエネルギーの源泉だし、生きる推進力にもなりますから。例えば、むかしお正月にユニクロのチラシを見ると、突然ダウンとかフリースが欲しくなったりしてたんです。それは環境のことを考えると負荷でしかないけれど、新しいジャケットを買って冬がちょっと楽しくなるのであれば、僕は全然いいと思うんです。そういった無駄も人生じゃないですか。必要なものだけで構成された人生は味気ないので、これが素晴らしいとか、あなたの人生を豊かにするとかっていう提案をすることに、僕は反対してないんです。

有史以来、そうやって人間は欲望を掘り当て、満たすことを商売にしてきたわけですが、いずれ全ての欲望が刈り尽くされるのではないか……というような恐怖を感じることってありません?

それもまた難しい問題で、手がかりになるのは、きっとサービスという概念だと思っています。サービスというのは人が今、抱えている負担を軽減させる装置なんですよ。例えば数十年前、電機メーカーは洗濯に苦労していた人たちに、洗濯機という画期的なサービスを提案したわけじゃないですか。そうやって人間の可処分時間が増えることで、また別のサービスが誕生し、サービスに対する欲望が惹起されて、それに応える商売が開発され続けてきたわけですよね。で、このサービスの行き着くところはどこかというと……また引かれると思うんですが『マトリックス』なんです。

大丈夫です。予想してました(笑)。

もう、何もしなくていいですよと。ステーキを食べたときの喜びが欲しければ、レストランに行かなくても、肉を調理しなくても、脳に入れた電極でそれが味わえるようになる。そこまで行くと、果たしてそれが本当に正しいことなのか?という疑問を持つ人たちが当然出てくるでしょうし、いろんなSF作家が書いてきたディストピアの世界で、肉体を取り戻そうと抗うレジスタンスが生まれるでしょう。僕は割と肉体原理主義的なところがあって、肉体の負荷に対する報酬でしか幸せを感じられませんから、そのレジスタントに恐らく加わるでしょう。

そんな時代になったら、上出さんの主戦場でもあるドキュメンタリーの定義も大きく変わってしまいそうですね。本書でも、撮れたものから編集によって物語を作るブリコラージュという手法が紹介されていますが、リアルを映し出すことに対する認識が変わるというか。

そもそも完璧なリアルを映し出すのは不可能なんだということに、どこかで気づかないといけないと思うんです。だって、同じ空間にいても人によって見え方が違うんですから、完璧な現実なんて当事者にしか体験できません。カメラで撮影する時点で、誰かの主観で切り取られた世界にしかならないんだから、もう全く現実そのままではない。もし『マルコヴィッチの穴』みたいに他人の頭の中に入って、その人の視点で世界を見ることができたとしても、思考する脳が違う以上は受け取り方が変わってきてしまう。つまり、どう頑張ったって、被写体と同じ“現実”を経験することは絶対にできないんです。

『ありえない仕事術』は、“仕事術”の本である

上出遼平

万人に共通する“現実”など、この世には存在しない。となると、編集をせずにそのまま撮ったものを見せるような番組作りにも興味はない?

ないです。カメラを構えて撮影をしてる時点で、世界を切り取るという“編集”が行われているのに、それを経た先で「この番組は無編集です」と言うのは、もう茶番でしかない。じゃあ、360度カメラで撮ればいいじゃないかと言う人もいるかもしれないけど、その360度カメラを置く位置を決めるのも編集ですから。どこまで行っても無編集という概念はあり得ないんです。

その編集という過程における大きな壁として“前提知識共有幻想”というワードも本書には登場していましたが、これって映像に限らず全クリエイターに共通する課題だと思うんですよ。私、マンガや小説の編集もしているので、作品を見て作家さんに「これでは読者に伝わらないです」と言うことも普通にあるのですが、今一つ納得いただけないことも多いので。

それ、本当に難しいんですよね。テレビの世界はマスメディアなので、テレビマンには可能な限り視聴者全員が理解できる番組を作るという使命があるんですが、みんなそこでつまずくんです。自分がロケをしたVTRに関して、当たり前のように説明不足になってしまう。例えば「この人、なんで突然大声出してるの?」と聞いたら、「すごく怒りっぽい人なんですよ」と返ってきて、「いや、それ見てて全然わからないから!」みたいな、エスパーでないと理解できないサイコパスな構造のVTRが頻発するんですよ。現場の作り手は1から10まで見ていて、全ての情報が頭に入っているから、どうしても説明不足になっていることに気づけない。そこでの最も実用的なアドバイスは、チェックをする側を経験してみることなんです。

なるほど!

例えば映像だったら、他人が撮影して編集したものをチェックする第三者になってみる。そうすると“コレのどこが面白いんだろう?”とか“なんかココ理解できないな”とかって感じることが絶対に出てくるので、それで一発でわかると思います。だから僕は、自分がアシスタントの頃からディレクターが撮影・編集した映像を番組プロデューサーや総合演出がチェックする場……プレビュー(試写)って言うんですけど、そこにできるだけ参加するようにしてました。そうすると、初見の人間がどんな風に感じるのか?っていう感覚が蓄積されて、自分で撮影したものを編集するときに「これは説明しないとダメだな」というラインが、だんだんわかってくるんです。

それでも作った人間が、初見の人間と同じ目を持つことは絶対に不可能なので、結局は第三者の目が必要になります。だから本でもドキュメンタリーでも、なるべく多くの人に見てもらうことは僕も常に心掛けていて、家族にも見てもらってます。この『ありえない仕事術』も、特に第二部は執筆時間が全然足りなかったので、とりあえず提出するたびに編集さんから指摘を受けて書き足していく……という作業を結構してました。

ただ、たくさんの人の目を入れて意見をもらうことは絶対に大事なんですけど、僕が欲しいのは初見の“感想”だけで、こうするべきという“指図”はほとんど受け入れないという姿勢は貫いているんです。そこで他人のアドバイスに添って直していくと、限りなく凡庸なものに仕上がっていくので。

「わからない」という感想は受け入れても、それを解消するための方策は、あくまでも自分で考えるということですね。

そうです。その結果、あえてわからないままでいく判断をすることもありますし、別の部分をわからせる方向に変えることもあるし。一生懸命ロケして何日も寝ずに編集したVTRを偉い人に見せたとき、「ここがわかんないな」とかって感想を言われるのは良いけれど、その後で「ここのシーンをこうして」とかって指図されると、は?と思ってしまう。なぜなら多くの場合、それって既に試し済みなんですよ。こっちは撮影した素材と何十時間も向き合って、どうするのが最適なのか何度も並べ替えて提出しているわけですから。しかも、言われた通りに順番を入れ替えて見せたら「前の方が良かった」と言われることも本当によくあって! だから、もう基本的に指図は受けないって決めたんです。感想だけ教えてくれれば、あとはこっちで最適解を出せるからって。

そもそも自分で考えず、第三者の指示に従うのって、一種の仕事放棄じゃないですか。自分で考えるのを諦めたということだし、それが癖になると提出の段階で自分にとっての最適解を出さなくなってしまう。むしろチェックする人間が満足するものを目指してしまうようになるから、それは作品にとって全く正しくないですよね。特にドキュメンタリーの場合は被写体が存在するので、その被写体と向き合った自分が最適・最高だと思う状態にしないで世に出すというのは、かなり不誠実になってしまう。まぁ、実際制作の現場でも、残念ながら多くがそうなっていますけれど。

なんにせよ、理想を実現するというのは難しいことですよね。それは本書の、特に第二部からも痛いほど伝わってくるのですが、読者が最後まで読み終えたとき、何を持ち帰ってほしいと考えてます?

正義の正体だったり人間の脆さ、危うさ、いろいろなものを持ち帰ってもらえるだろうと期待はしているんですが、やっぱり「これは仕事術の本だ」と僕は言い切りたいところがあって。この本を手に取って読み始め、読み終えたときに「なんか変なものを見たな」とか「なんてこった!」とかって感じてくれたのであれば、その時点で僕は本当に仕事術を提案できていると思うんです。仕事術というものに対して固定化されたイメージがある中で、これだけ形の違うものを提示して人の心を揺さぶることができるんだ、ということを体感してもらえたら。「仕事ってこんな楽しみ方があるんだ」とか「こんなアプローチもあり得るんだ」っていう、その可能性を感じてもらえたら、それこそが最初で最後の仕事術の本を僕が書いた意味になるので。つまり、あなたが感じたその心の動きが、仕事の醍醐味だということです。

「仕事というのは、多くの場合退屈でつまらないもの」だと本書にも書かれてはいますが、どんな出発点からでも自分自身の喜びを引き出すことができるということを目の当たりにできて、個人的には勇気を貰えました。

そうですよ。僕なんて今、1日に3時間くらいエゴサしていて、この本についての投稿はほぼ全部リポストしているんですけど、「とんでもないものを読んだ」とか「本ってこんなに面白かったんだ」とか「自分に本を一気読みする体力があったなんて信じられない」とか「面白すぎてマキシマム ザ ホルモンの出番を見逃した」とかっていうのを目にするたびに、しめしめとほくそ笑んでるわけです。これこそが僕にとっての仕事の醍醐味ですよね。読者の皆さんが、この本を読み終えて茫然としたり興奮している様を想像して、僕は「仕事最高!」って涎垂らして喜んでいる。つまり“こうであるべき”という固定観念を壊し、オルタナティブを示すことの喜びを、あなたの体験そのものが示してくれているんですよ。


写真提供 徳間書店