これまでに3冊の歌集を刊行し、2023年の最新刊『気がする朝』(ナナロク社)が1万部を突破した歌人・伊藤紺さんが初のエッセイ集『わたしのなかにある巨大な星』(ポプラ社)を上梓。“言葉と創作”をテーマに、「創作において、自分をつらぬくということをとても大事に思っている」と語る伊藤さん自身について、さらに、経験を踏まえて“創作”という道を辿ったいきさつについて綴った25編が収録されています。
自身の中にある“譲れない”ものを「わがままで気高い星」にたとえ、「たましい」と呼ぶ伊藤さんが、あえて「むずかしい」と語るエッセイに挑んだ理由と、そこで得たものとは? その答えを聞くべく伊藤さんご自身に直撃しました。
歌人。1993年生まれ。東京都日野市出身。著書に歌集『気がする朝』(ナナロク社)、『肌に流れる透明な気持ち』、『満ちる腕』(ともに短歌研究社)。2026年4月、言葉と創作をめぐるエッセイ『わたしのなかにある巨大な星』(ポプラ社)を上梓。
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絶対にブレない何か=魂

今回、発売された『わたしのなかにある巨大な星』はWebマガジン「WEB asta」での連載が元になっていますよね。本書の中でも「エッセイはむずかしい」と書かれていましたが、なぜエッセイでの連載を始めることに?
もともと連載は単行本の刊行を前提としたものでした。ポプラ社の辻さんが、トークイベントを見に来てくださったことをきっかけに、「エッセイを出しませんか」と声をかけてくれて。言葉や、創作についてというテーマはそのときに辻さんが提案してくれたものです。
日常を書くようなエッセイはあまり興味がもててなかったのですが、言葉や創作についてだったら、考えていることもいろいろあったので、書いてみたいなと。ただ、最初は創作論のみで考えていたので、作家の友人たちに「絶対ネタ切れする」「やめたほうがいい」と言われてました。実際書いてみたら、本当に書けなかった(笑)。
そこから個人的に少し視野を広げて。書けそうなテーマで何本か同時に進めていき、最後まで書き終えられたものを提出していたので、書ききれずボツになったものも多いですね。

本書の序盤では伊藤さん自身、つまり“わたし”について、かなり赤裸々に明かされていますよね。そこに抵抗は無かったんでしょうか?
抵抗は特に無かったですね。創作について書こうとすると、自分の人間としての部分を書かないことには説明できないことが多いことに途中で気づいて。
その伊藤さんの「人間としての部分」に、読者からの反響があったそうですね。
エッセイを出すのも初めてなので、どんなふうに受け入れてもらえるのかは全く未知数だったんですけど、発売から1週間も経たずに重版も決まって。読者の方から「熱いエッセイ」だとか「本気のエッセイ」みたいな言葉をいただいて、嬉しかったです。
読ませていただいて、とにかく確固たる“自分”というものを持っている方なんだなと強く感じました。
昔から言われますね。「我が強い」とか「頑固者」だとか。それで子供の頃は仲間外れにされることもあったけど、どうしても自分の中に譲れないものがあって。
自分の中に頑なな、絶対にブレない何かがある。それをわたしは“魂”と呼んでいて、自分の魂に興味をもっています。
「自分をもっててすごい」と言っていただくこともあるのですが、わたしは魂以外の心とか体といった大部分の自分については、全然ブレまくりなので、自分をもっているとは個人的にはそんなに思わないですね。
エッセイは贅沢な体験

就活のとき、面接官に「みんなはあなたじゃないんです」と言われたというエピソードも書かれてましたよね。それを言われると多くの人は反省したり、もっと他人の気持ちや価値観に寄り添おうとすると思うんですが、「みんながわたしじゃないならわたしがわたしをやってみたい」という結論に至ったところに、伊藤さんの凄まじい強さを感じたんですよ。
ありがとうございます。でも、その言葉を言われてから、そう書けるようになるまで10年かかってますしね。もちろん言われたときは嫌だったし、なにかとんでもない爆弾をもらっちゃったような気分でした。
今回1冊書き終えてみて、伊藤さんの中でエッセイというものに対する印象や考え方って変わりましたか?
そうですね。たとえば、インタビューで質問いただいて、自分の過去のことをお話しすると、どうしてもかいつまんだ、いわゆるインタビュー専用の答えになります。さらに、それを編集していただいて、掲載されることになるので、必ずしもただしい過去ではないという認識があり。
エッセイでは、自分の過去を自分の言葉で組み立てていくことができるので、それはすごく贅沢な体験だなと思いました。
もちろん全部を書けるわけではないですが、たとえば今書けないことも、来年には別の視点が生まれて、書けるようになるかもしれない。過去を自分のタイミングで、自分の言葉で、自分の思い通りの長さで、しっかりと語ることができるのはエッセイの魅力なのかなと思います。

では、また次にエッセイの依頼が来たときは、もっと積極的に取り組めるかもしれない?
うーん、「またやりたい」とも思うけど「こんなに大変なんだ……」とも思ったので……。テーマにもよりますね。
自分の過去については、元となる体験があるので、時間はかかっても書き切れることが多かったのですが、たとえば『歌の完成』、『未知とリアル』、『魂の論理』といった創作における哲学的な内容に踏み込まないと書けないようなものは、終わりが見えなすぎて、書いててしんどかったですね。
『未知とリアル』は私も何度も読み返しました。偶然の組み合わせなどで、知っている言葉の羅列に“未知を召喚”できるというのは面白い考え方ですよね。たとえば、伊藤さんがこれまで“未知の召喚”に出会ったと感じた作品はありますか?
程度の差はあれ、“未知の召喚”は自分にとって全部の作品でできてなきゃいけない、みたいなイメージですね。特に最近の作品は。
エッセイにも書きましたが、この世に存在するものにはすべて未知が含まれてると思ってて、作品に未知を召喚するというのは、存在に近づいていくひとつの方法、みたいな言い方が近いかなと思います。
求められなかったとしても

ちなみに本書の中に“創作の筋肉を鍛える”という文言が出てきましたが、それによる成長や進化も感じたりされているんでしょうか?
やっているうちにいつのまにかできるようになった、みたいなことはたくさんあるんですけど、わたし自身は特に創作の筋トレみたいなことを自主的にしているタイプではないですね。今のわたしが筋トレに力を注いでも、ただの「美ボディ」の域を超えないというか。今はもっとその前にやるべきことがあるという感じがしています。
「求められたらうれしいけど、誰に求められなくても、作品の価値は変わらない」と、本書の中でおっしゃっていましたね。これを言い切れるのは、創作者として本当に強い。
ただ、それぞれに、それぞれの願いの叶え方がありますからね。人に理解されることだったり話題になることに、最大の喜びや創作の意義を見出す方も、やっぱりいらっしゃるじゃないですか。そこに優劣はなくて、みんな対等だとは思っています。ただ、自分は求められなかったとしても、たぶん短歌を書き続けるというだけで。
となると、自分の作品に対するレビューや批評も気にならないのでは?
気になりますよ。読者の方の感想もたぶん全部読んでいるし。とてもうれしいです。批判であっても、ちゃんとした批判であれば、傷ついたとしても読む価値があるし。ただ、そんなちゃんとした納得のいく批判はまだされたことがないですね。

ところで言葉を使ってお仕事されている身として、最近のAIの台頭に関しては、どのように感じられています?
AIは日常で使ってますし、何も特別な感情はないですね。エッセイを書いていて続きが書けないときに、それまでの文章をAIに入れると、すっごくつまらない文章が出てくる。でも、続き方の一例は見れるじゃないですか。
無難な文章の無難なリズムが、自分の書いた文章の後に続いているのを見ることによって、違うリズムが出てきたりする。だから『わたしのなかにある巨大な星』を書くときも、反射を呼ぶ道具として使ったりしてました。
違和感から正解が見えることもありますもんね。あとは、絶対に知っている言葉なのに頭から出てこないとき、「こういうニュアンスのカタカナ語」とかってAIに聞くと教えてくれたりとか。
あるある。類語とかも、めっちゃ調べます。それを眺めているうちに、また違うものを思いつくかもしれない。
それくらい1つひとつの言葉に対して妥協せず、誠実に向き合っているということですよね。次の歌集も楽しみです。
今回のエッセイで、自分の創作についての考えや理想を書いたことで、次回作のハードルを自らあげちゃっているのですが……。かならず自分の納得のいく、最高のものを出すので、楽しみにしていてください。

撮影/中野賢太(@_kentanakano)
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