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僕、本当に空っぽなんです - 『ハイパーハードボイルドグルメリポート』の上出遼平が小説連載を開始

上出遼平

空っぽだから、吸収したい

『群像』書影
『群像』2022年11月号
(『歩山録』第1話掲載号)

ここまでのお話を聞いて思うに、『歩山録』に書かれている主人公の山田って、もしや上出さんご自身の映し身でもあったりします?

まぁ、ほぼ僕じゃないですかね。僕が否定したい自分なんじゃないかな。僕、自己認識としてホントに空っぽなんですよ。何もないんです、僕には。

いや、これまでの実績を見ると、全くそうは見えませんが。

じゃないですか? 空っぽだと思われたくないから、いろんなことをしているんです。空っぽだから、いろんなものを取り込もうとしてるし、いろんな人に話を聞くことが仕事になったような気もするんですよね。空っぽゆえに、誰の話を聞いても面白くて「中身あるな!」ってリスペクトしてしまうから、いろんな人の話がすいすい入ってくる(笑)。だから僕の持っている倫理観とかも、どこか借り物だなという意識があって、実体験に基づく実感を伴っているのか自信がない。後付けのロジカルな倫理観というか、ロジックで自分を武装していくというようなところがあって、そのへんが山田にも投影されている気がしますね。

この山田って、正直ちょっと嫌な奴ですもんね。理詰めでナチュラルに周りを見下していて、それも考えようによっては自分自身が空っぽだから理論武装しているのかもしれない。

嫌な奴でしょ? 僕、ベースが嫌な奴なんですよ。「これをやったら嫌な奴だと思われるな」というのはわかるから、普段はそういう態度を取らないようにはしてますけど、むき出しの僕はたぶんソレで、その虚無を僕は捨て去りたいんですよね。だって肉体とか実体が尊重されていれば、ロジックが最優先されることはないはずなんですよ。だけどロジックとか経済合理性みたいなものを何よりも優先してしまう現代では、僕の嫌いな山田は持てはやされがちな存在でもあって、それに対する否定をしたいというのはありますね。ロジックや理屈なんてどうでもいい、もっと大切なことある……っていう旅の話です。この『歩山録』は。

上出遼平

ロジックではなく肉体による“実感”を得るための物語なのかもしれないですね。しかし、テレビ局員時代に数々の映像を撮ってこられた上出さんが、フリーになって小説に表現の場を選んだのは何故だったんでしょう?

やりたかったから……ですね(笑)。テレビ番組を作り続けるならテレビ局にいればいいって話なので、フリーになったからには今までやれなかったことをやりたかったんです。本来は文章が一番好きだということもあったし、そもそも『群像』に声をかけてもらうなんて、そう無いことですから。元をただせば、局員時代に一度寄稿していて、そのご縁で1年近く前にお話は頂いていたんですよ。でも、いろんな事情で書けなかったのが、会社を辞めた今なら書けるということで始めたんです。

文章がお好きなら、例えば学生時代に文筆家を志すなんてことは無かったんですか?

全く無いですね。高校生のとき夏休みの宿題で書いた文章を先生が勝手にどっかのコンクールに出して受賞したり、文章で褒められることは多かったですけど、そんな狭き門ないよなって。文章で食っていけるなんて何人いるんですか?っていう話なので、空っぽな僕には企業に勤めておまんま食うことしか選択肢はありませんでした。それでも何かモノを作れたらいいな……というあんまりカッコよくない根性のもと、間を取ってテレビ局に入ったんですよね。でもVTRを作る作業って、実は文章を書くのとかなり近いんですよ。

上出遼平

例えば『ハイパーハードボイルドグルメリポート』の書籍版を書いていたときは、常に「この文章は次の文章を読ませるための文章である」という意識を持っていて、それって映像の作り方と一緒なんですね。全てのカットは次のカットを見たくなるために存在しているわけで、5秒でも意味の無いカットが入っていたら、その間にリモコンを持ってる人はチャンネルを替えてしまう。同じことが文章でも言えて、不必要な一文があると読者は脱落してしまうし、例えば村上春樹だったら50ページくらいは余計な描写でもイケるんですけど、僕が書いた面白くない1ページは許されないわけですよ。そんなことを客観的に考えながら、映像も文章も作っているんですよね。

それって「自分の表現したいものを自由に表現するんだ!」という芸術家的スタンスとは、ちょっと違いますよね。客観視しているという点では、むしろ編集に近い。

まぁ、アーティストではないですね。いわゆる自分の中にやむにやまれぬ衝動があって、表現しないと死んでしまう!みたいなことではない。自分がワクワクできて受け取った人にもワクワクしてもらえる、そんな“エンターテインメント”を作るためのツールが映像だったり文章だったり音声だったりするというだけなんです。

ただ『歩山録』に関しては、やっぱり文学的でありたいという欲望が僕の中にあるので、受け手には不要かもしれないと思いつつ、あえて残している部分もありますね。文章だと「全然わけわかんない!」っていう世の中を、そのまま映すこともできるじゃないですか。そういう必要のないものをどれだけ読んでもらえるか?っていうのも、実は僕が文章でやりたいことの一つなんですよ。

必要なものばかりで埋め尽くされた世界なんてつまらないし、エンターテインメントさえ必要なものでしか構成されなくなったら、それこそ昨今流行ってる本の要約サービスと同じになっちゃいますからね。それはもはや表現じゃなくて情報なので、不要なものをたくさん読んでもらいたいという妙な欲望はあります。

芸術や表現って、ある意味不必要なものの塊ですもんね。ちなみに『歩山録』の結末は、もう決まっているんですか?

僕の中では一応。ただ、いくつかのパターンが存在しているので、どっちに行くかは、ちょっとまだわかってない。僕の中では3話くらいからドライブがかかっていく感覚で、そんな考え方もテレビじゃ絶対にありえないんですよ。1話目の1行目からドライブしろよ!って話で、だけど『群像』の読者の方なら耐え忍んでくれるに違いないと、勝手に思い込んでます。

理屈が通じない山の中で、山田が今後どんな目に遭うのか楽しみにしてます。

まぁ、山田はそんなにヤワじゃないですけどね(笑)。ただ、映像に比べて文章は時間がかかっちゃうんで、この『歩山録』も今、2話ずつ書いているんですけど、考えるのに2週間、書くのに3週間くらい必要なんですよ。で、これだけじゃ食えないから、それ以外の仕事でパツパツで……かなりヤバいですね。3カ月前が締め切りだったのに、まだ1文字も書いていない案件もある。

でも、書籍版の『ハイパーハードボイルドグルメリポート』なんて、凄まじいページ数だったじゃないですか。あれは1冊書くのにどのくらいかかったんですか?

ご依頼いただいてから2年半から3年は動かずにいたのが、突然締め切りを出版社に決められて、そこから4カ月くらいだったかな? ずっと椅子に座ったまま寝ないで書いたので、お尻に出来物が山ほどできましたよ! ただ、僕が書いた原稿自体は出来上がりの1.2倍くらいあったのを、ブロックごとにバスバス切っていって、なんとか520ページに収めたんですよね。最初に依頼してくれた編集者は、いわゆるテレビ本――写真があって、ちょっと文章があって、いろんな人のインタビューがあって――みたいな形式で考えていたらしく、この原稿があがってきて仰天したみたいです。

体裁から企画から全部変わっちゃうんですから、そりゃあそうでしょう!

そうなんですよね。テレビ系の本って、作者が喋ったことをライターさんが書いて本にするような形式が多いんですけど、それは嫌で「自分で全部やります」って言った結果、こうなりました。でも、これを書けたのは素晴らしい経験でしたね。満足してます。

フィクションに対する憧れ

上出遼平

文章だけでなく、映像のお仕事も当然並行されていくと思いますが、そのへんのバランスやスタンスはどんな風に考えていらっしゃいます?

流れに身を任せ……ですね。需要に応えるのも大切なことなので、今、世の中が僕に求めてくれることに応えていく。ただ、基本的には自分のポートフォリオになるものか、お世話になった人への恩返し、もしくは社会貢献になるようなことしかやらないので、ご依頼いただいても断ることはかなり多いです。

例えば、地上波のバラエティでディレクターをレギュラーでやるとか、コンスタントな収益にはなりますけど今は、やる必要がないと思っているので受けてないですね。最近はファッション系に少し手を出していて、当然モノを売るのが目的の映像の中に、自分が伝えたい社会問題とかを無理やりぶち込んでます(笑)。あとは地上波のいくつかの案件が動いていたり、アートプロジェクトの参加が決まっていたりと、いろいろやっています。

上出遼平

他にはポッドキャストの新作の準備と、実は外国に会社を作ろうとも画策しています。その準備でここ半年くらいはLAとNYを行ったり来たりしてますね。

やはり社会問題の提起や、ご自身なりのメッセージを伝えていきたいという想いも、活動の根っこにあるんですね。

ありますね。自分が結構ヤバい人間なんで、そこでバランス取らないと……ヤバいんですよ。決して“正しき人間”ではないので、自分の信じる社会にとって良きことをやらないとヤバい。

そんな風に常にバランスを考えて、客観視した上で活動されているのが、個人的にとても共感できるところなんです。書籍版の『ハイパーハードボイルドグルメリポート』でも「取材は暴力であるという前提を忘れてはいけない」と書かれていましたが、ジャーナリズムの正義だけを振りかざすのではなく、ネガティブな側面も十分認識した上で「それでもやる」と覚悟を持って踏み出されているのが素晴らしいなと。

上出遼平

正義感だけ背負ってジャーナリズムやってる人って、わりとヤバいことが多いですね。自分の正義を伝えようとする、その危うさたるや。僕自身『ハイパーハードボイルドグルメリポート』でも、ずっと葛藤があったんです。取材対象を搾取して、その犠牲のもとに別の価値を社会に対して提供し、自分は飯を食うという、その構図にずっと嫌悪感を持ちながら、当時の自分にはそれしかできることがなくて。どこからも搾取せずに同じ効果を社会に与えることはできないのだろうか?と考えたところから、フィクションに対する憧れが生まれたんです。逃げと言えば逃げです。その逃避行の第一歩が『歩山録』なんですよね。

フィクションなら取材対象を見世物にしたり、傷つけることもありませんからね。

まぁ、取材をすることで被写体にとって良い結果を招くことも往々にしてあるんですけどね。だから取材はしても、アウトプットの形としてはフィクションにするとか、そういうことも今後あるかもしれない。

その上で将来の目標としている、理想の活動像ってどんなものなんでしょうか?

旅をしながら文章を書いて自分の生活だけを支えていくこと……って、それは半分冗談ですけど。やっぱり自分がワクワクしつつ、受け手もワクワクできて、世界が広がっていくということを目指したいですね。今、僕が掲げている倫理観も30年後は全く違うものになっている可能性があるので、そこに固執する必要はないし。ただ、どっちかというとメインストリームに対する、アンチテーゼの立場で居続けるだろうなとは思います。それは自分のキャラクターというか。

それも上出さんならではの“バランス”なんじゃありません? 自分を客観視してバランスを取っているように、社会においても少数派に立つことでバランスを保とうとしている。

確かに、そうですね。何かが大勢を占めてバランスを欠いているように見えるから、たぶん逆側に立って重心を取ろうとしているだけなんです。特に貫きたい信念があるわけでもなく、信念があるとすれば“バランスを取る”ということだけ。

それって言葉悪いですが“空っぽ”だからこそできることなのかもしれないですね。変に個人的な信念があると、柔軟に立ち位置を変えることってできませんから。

おっしゃる通りです。で、僕の空っぽながらの強みがあるとすれば、10年以上いろんな人の人生を深く見てきたことだと思うんですよ。こんなに会社の金でいろんな人の人生を覗き見してる人間いないんじゃないか?ってくらい見てきたし、それもプロデューサーとして他人が撮ってきたVTRを通しての“見た”ではないんです。自分自身が面と向かい、40分の番組でも現場では何日も話を聞いたりしてるんで、僕の中には人間の心の動きとか人生の選択の仕方とか、それに伴って何が起こってくるかの蓄積があるんですよね。それを物語に活かしていくことができるだろうというのは、恐らく僕の強みです。

10年かけてさまざまな人生を見聞きし、たくさんの引き出しをご自身の虚無の中に詰め込んできたということですね。

まさに。それをエディットしている感覚なんで、ぜひ“無”が作る物語を観てほしいですね。

上出遼平

撮影/中野賢太@_kentanakano