昭和を代表する日本の文豪、太宰治。『人間失格』、『走れメロス』、『斜陽』。誰しも一度は、そのタイトルを耳にしたことがあるはず。その太宰を父に、そして『斜陽』の元となる日記を綴った太田静子を母に持つのが作家、太田治子さん。
太田さんは、この6月に、『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子/斜陽日記』をちくま文庫より刊行。本書は、2009年発売のノンフィクション『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』と、母・静子が記した『斜陽日記』(1948年刊行)を合本したもの。
著者の母、太田静子が描いた『斜陽日記』をもとに『斜陽』を完成させた父・太宰治の姿、そして家族の姿を、娘のまなざしを通して静かに描き出します。両親の作品を誰よりも深く読み解いてきた著者だからこそ語れるのは、伝説ではなく、一人の作家と一人の女性としての“父と母”の人間像でしょう。
長年にわたり作家として活動してきた太田さんに、創作の裏側や、ごく飾らない日常についてお話をうかがいました。取材当日は、スニーカー姿で軽やかに現れた太田さん。柔らかさと華やかさをあわせ持つその雰囲気は、現れた瞬間に場の空気をふわりと明るくする印象でした 。
1947年神奈川県生まれ。父は太宰治、母は太田静子。明治学院大学文学部卒業。高校生の時、瀬戸内寂聴に勧められ「手記」を書き、執筆への感触を得る。1986年、「心映えの記」で第一回坪田謙治文学賞を受賞。NHK『日曜美術館』初代アシスタントを務め、その後はNHK『ラジオ深夜便』の「私のおすすめ美術館」に出演。2007年にはNHKカルチャーアワー文学の世界「明治・大正・昭和のベストセラー」を担当。主な著書に『母の万年筆』(朝日新聞出版)、『時こそ今は』(筑摩書房)、『絵の中の人生』(新潮社)、『恋する手』(講談社)、『小さな神様』(朝日新聞社)、『石の花 林芙美子の真実』(筑摩書房)、 他に『湘南幻想美術館 湘南の名画から紡ぐストーリー』(かまくら春秋社 2019 )、『幻想美術館 名画から紡ぐストーリー』(かまくら春秋社 2024) などがある。
母と私をつなぐ物語の力

『明るい方へ』と『斜陽日記』、2つの作品が交差するこちらの書籍を読んで、私の中のお父様像が大きく変わりました。太宰治という偉大な作家に大きく影響を与えた歌人でもあり作家でもあったお母様ですが、改めてご自身にとってお母様はどのような存在だったとお感じになりますか?
私は太陽のように明るい母のことが大好きでした。そして、思ったことをハッキリと口にする人。でもその裏には、ものすごく繊細で、傷つきやすい一面もありました。
明るさは、生まれつきの性格というよりも、「自分で選んでそうしていた」部分が大きかったように思います。子どもながらに、母が苦しい気持ちをこらえて私の前では笑ってくれていることに気づく瞬間があって……その笑顔が印象的で、今でも忘れられないですね。
そんなお母様だったからこそ、当時すでに人気を博していたお父様が強く惹かれたということは作品の中から読み取ることができました。
そうですね……。私はこれまでも、父と母のことを話すのはあまり得意ではなくて。というのも、世間では、母は「太宰の愛人」、私は「愛人の子」といったふうに語られてしまうことが多くて——。そうした言葉の響きが、自分の人生や家族の記憶とあまりにもズレているように感じていましたね。
もちろん、事実としての関係性は否定しません。でも、それだけで母や私の存在を語られるのは、どこか一面的で、本当の思いや背景には触れてもらえないような気もしていました。
なるほど。言葉にされることで、本来の姿から遠ざかってしまうような感覚ですね。
ええ。だからこそ、私は「物語」の力を借りるようになったのかもしれません。小説という形なら、ありのままの母や、私自身の思いも、もっと自由に表現できるんじゃないかって。物語のなかに、私の真実を、そっと忍ばせるようなつもりで。
感性を耕した豊かな経験は筆先へ

執筆に限らず、太田さんはさまざまな方法でご自身の感性を表現されてきたのだと感じます。たとえば、過去にNHK教育テレビの『日曜美術館』の司会アシスタントをされていたことがあるそうですね。
はい、そのお仕事は本当にラッキーで、たまたまいただけたものだったんですけど。もともと母が絵が好きで、その影響で小さい頃から画集を眺めたり、古典からモダンまで、幅広い美術作品を見て育ちました。今は“美術館同行講師”という肩書で、ヨーロッパの美術館を巡る旅にご一緒することがあります。
執筆活動だけでなく、美術作品のご案内もされておられるんですね。
参加者のみなさんに作品世界を解説する立場なんですけど、やっぱり仕事で行ってるという意識はありますね。もちろん素敵なホテルに泊めていただいて、美味しいものも食べさせてもらえるんだけど、自由に動けるわけじゃない。
だからやっぱり、本当に気を遣わずに楽しめるのは“ひとり旅”なんです。一人でふらっと訪れた美術館で、ふいに出会う無名画家の一枚。そんな偶然にこそ、心が動かされるように思います。
作品の中で、太田さんが娘の万里子さんと訪れた生まれ故郷の神奈川県小田原市“下曽我”の風景は、自然が豊かで、まるでその場に立って同じ空気を吸っているかのような錯覚を覚えました。戦中、お母さまが疎開し、お父様もたびたび訪れていたその地を歩きながら、娘として、母として、何を感じていたのでしょうか。
下曽我はね、両親にとって特別な縁のある場所。海が綺麗に見え、三浦半島や富士山が望める場所でもあり、ひなびた雰囲気がとても懐かしい感じがするの。だから、私の両親がその地で過ごした時間を思うと、風景のひだにふと記憶が重なって、まるで今もそこに佇んでいるような不思議な感覚に包まれることがあります。
それでね、下曽我って梅で有名な場所なんですよ。だから、周辺にも梅干し屋さんが多いんです。私、昔ながらの、塩だけで漬けた梅干しが好きで、今は蜂蜜漬けの南高梅みたいな梅干しが主流ですが、下曽我を訪れるたびに必ず手に取るのが地元の梅干し。梅と塩だけで丁寧に漬け込まれた、しょっぱくて素朴な梅干しです。
東京のスーパーでは出会えないような、まっすぐな味。しかも、値段は都内の半額以下。素材本来の力強さが、ひと粒にぎゅっと詰まっています。おすすめですよ。
なるほど。普段からいろいろな場所に足を運ばれているようですが、そうした出先で執筆されることもあるんでしょうか。
執筆は、特別な場所でなくても、どこでも。出かけるときは、いつも鞄の中にメモ帳と鉛筆、それから消しゴムを入れています。思いついたときにすぐに書き留められるように。紙と鉛筆、やっぱり、いいものですよ。

無理をしないことが、続ける秘訣
作家として長く歩まれるにあたり、ご自身の創作や仕事において特に大切にされている信念や指針についてお聞かせいただけますでしょうか。
生意気って言われるかもしれないけど……私は自分が無理をしてまでやることは長く続かないと思っているんです。迷いのなかでも、自分なりの考えに基づいて選択を重ねていくこと。それが何より大事。
若い頃から「書くこと」と「美術を伝えること」、その二つの軸はぶれないようにしてきたと思います。執筆に関しては、たった一人の好きな人に話しかけるように書くようにしています。特定の人へ心をこめた言葉が、結果的に多くの読者に受け入れられることもあって、うれしく思います。
でも、時に迷ったり、立ち止まったりすることはあって。そういう時こそ、歩くんです。ひとりで静かに歩くと、自分の中にある本当の声が聞こえてくる。だから、散歩がしやすい服装でいることは、私にとって大切な働き方でもあるのかもしれませんね。

軽やかなスニーカー姿の理由が、お話を伺って理解できました。お母様がご存命の頃、太田さんの仕事のご様子について、何か言葉をかけられたり、ご意見を添えられたりしたことはありましたか。
昔、母方の叔父の事務所が有楽町と銀座にあって、そこで勤めていたことがあるんです。今、GINZA SIXになった松坂屋によく来客用のお菓子を買いにいきました。叔父が88歳でね、とても優しい人でした。来客があればお茶を出して、お見送りをして……あとは雑用係。
そんなふうにして、毎日、のんびりと過ごしていたんです。で、ある日、母が突然、様子を見に来たんですね。「あの子、何をしてるのかしら」って。その時ちょうど私、居眠りをしてたんです。そしたらもう、母の顔色がサッと変わって。「あなたね、そんなふうに気を抜いているようじゃダメよ」って。
うちの母は、ちゃんとしている人でしたから、そういうところは厳しかったんです。まさか来るなんて思ってなかったので、ほんとにタイミングが悪かったですよね(笑)。
お母様の信念を感じるエピソードですね。お父様の『斜陽』の中にある一文、「人間は恋と革命のために生まれて来たのだ」は、もともと、マルクス主義の革命家、ローザ・ルクセンブルクの影響を受けたお母様の日記に記されていた言葉だそうですね。それをお父様が作品に用いられたものとして知られていますが、太田さんご自身は、時代が移り変わる中でこの言葉をどのように受け止めていらっしゃるでしょうか。
その一文は、確かに母、太田静子の日記の中にあった言葉でした。それを父が作品の中で用いたことで、あの時代の理想や情熱の象徴のように広く知られるようになったのだと思います。今の時代にあって、この言葉をどう受け止めるか──と問われれば、それはもう、まっすぐには語れないくらい複雑なものを感じます。
ただ一つ言えるのは、「人間には、変わらずに情熱を持つ力がある」ということ。たとえ時代が穏やかになっても、心のどこかには、恋や理想を求める灯のようなものがきっと残っていて、それがあるからこそ、何かを創りたい、誰かと生きたいと思えるのではないでしょうか。
父も母も、そうした熱を持っていた人でしたし、それが言葉となって、いまも多くの方に届いているのだとすれば──やはり、言葉には命があるのだと感じずにはいられません。
矛盾を抱えながらも明るい方へ。父、太宰治について

作品中の「二人の中の『聖なるもの』を、信じようと思った」という言葉が印象的でした。お母様を通して認識している太宰治というお父様や、お母様との時間を通して育まれた想いの中で、今も心の拠り所にしている「信じたいもの」はありますか?
そうですね……父は人を惹きつける才能を持った人で、人を喜ばせる天性の魅力があったようです。父の作品を読むと、「ああ、こうやって人の心に入り込むんだな」と思わされるんです。
誰にでも優しくて、誰にでも弱みを見せてしまうから、こっちにいい顔、あっちにいい顔。立派な奥様がいても、それとは別に好きな女性とも深い仲になってしまう。よくも悪くも、そんな一面も父の言葉や作品に命を与えているのだと思います。
母のことで覚えているのが、親戚のうちに母と私が居候をしていた時期があったんです。そのおうちは五右衛門風呂だったので、母が庭で薪割りをしていたのですが、私はその姿を見てとても悲しかった。それで、私が成長したら母を楽にさせてあげたいと思って「大きくなったらママに100万円あげるね」と言ったらとても喜ばれました。
私は、そういうことを言うと大人は喜ぶんだなと思って、母屋の親戚にも同じように「100万円あげる」と言って喜んでもらいました。ところが、それを聞きつけた母は激怒しました。「あなたは誰にでもそういうことを言うの?」って。だから私の性格は、どちらかというと父に似ているのかもしれません。
母は大分出身で九州の女性だから、思ったことを包み隠さずズバッと言うんです。人を喜ばせるために言葉を選んだりはしない。むしろ相手が怒るようなことでも、まっすぐ口にするんですよ。そんな芯の強さやわがままなところもありましたが、人の心をふっと軽くするような明るさもあって、一度母に、「あなたみたいな人と結婚したい」って言ったことがあるくらい、母を大好きでした。
年月が経ち、私がいま心の拠り所にしているのは、父と母の中に流れていた「まっすぐな思い」と「人を想う優しさ」です。ふたりとも、自分のことよりも相手を思って、苦しくなってしまうようなところのある人だった。でもその不器用さの中に、ちゃんと本当の気持ちがあった。どんなに複雑な記憶があっても、その根っこにあるまっすぐなものを信じていたいと思います。だからこそ、今の私がいるんじゃないかな。

お話を伺っていると、太宰治という「作家」ではなく、太宰治という「人間」にこそ、今の若い世代が惹かれている理由が見えてくる気がします。そこで改めてお聞きしたいのですが、お父様の作品『人間失格』は、Z世代にも絶大な人気を誇っています。例えば、アニメ化もされた文豪異能力バトルアクション漫画『文豪ストレイドッグス』でも、お父様は圧倒的人気のキャラクターだそうです。 そんな若い世代にこそ知ってほしい、太宰治という人間の本質とは、太田さんはどこにあるとお考えですか?
『人間失格』ってね、人間が怖い、人間が嫌いっていうことが繰り返し書かれてると思うんです。でも私には、それだけじゃなかったように思えるんです。
やっぱり、父は人間が好きだったんだと思います。好きだからこそ、怖くて、傷ついて、でもどうしても惹かれてしまう……そういう矛盾を抱えたまま、ずっと人間と向き合っていたんじゃないかしら。父は人の言葉に深く傷ついてしまうような繊細な人だった。でも同時に、どこかでよく見られたいという思いも強く持っていたので、それを分かったうえで自分の弱さをなんとか克服したいと思っていた……私は、そこに父の本質があったと思っています。
『人間失格』の主人公も、まさにそうですよね。例えば「竹一(たけいち)」というちょっと変わったお友達が出てきますけれど、彼との関わりの中で、自分の本当の姿を見せられてしまう。あれは父が、自分自身と向き合った瞬間だったのではないかと思います。あの作品には、父の人間に対する複雑な思いが、そのまま描かれているように思えるんです。
母から聞いた話ですが、父はお酒を飲まなければ、相手の顔を見て話すこともできないようなシャイな人だった。人と関わるのが下手で、でも本当は、人間が大好きな人。父は鰻が好きで鰻屋さんの上に住んでいたこともあったそうですが、鰻を食べて元気をつけて、原稿を書く。いつも、自分をなんとか持ち上げて人と交流したり書いたり、そんなところがあったようです。
自分の弱さを強調してしまうこともありましたが、でもその裏側にはね、まっすぐに明るく、誰かと向き合える人になりたいっていう憧れがあったんじゃないかと感じています。人の顔をちゃんと見て話せる人間になりたかったんじゃないかな。だからいま、若い人たちが太宰に共感するのもなんとなく納得できます。自分の弱さを隠さずに、それでもどうにか前を向こうとする──そういう姿に、今の若い方たちは励まされているのかもしれませんね。
太宰の作品ってね、人間へのラブコールなんです。どこまでも、人を好きでいたいっていう願いがこもってる。やっぱりね……本のタイトルにもしましたが、明るい方へ、行きたかったんだと思います。

撮影/阪本勇(@sakurasou103)
FREENANCE MAG 
